自分と向き合うということは、過去と向き合うということと同義だと思う。今までの体験や経験を見つめ直すことで、自分を知ることが出来るから。そうして何度も向き合って自分の解像度を高めたうえで、はじめて自分のことを定義出来るようになると、わたしは考えている。
そういった意味だと、わたしは自分のことを定義出来ていないことになる。過去を見つめ直すことすらせずに、つらいことから逃げ続けたわたしは、自分のことを何一つとして知らないのだから。そんな状態で自分を定義することなど、出来るわけがないだろう。
ずっと目を背けることなんて出来ないのは分かっている。いつかは自分と向き合って、過去を受け入れる必要があることだって知っている。それでも、見苦しく言い訳を続けて、自分と向き合うことを先延ばしにしてしまっている自分が存在しているのだ。
つらい出来事からは目を背けて、都合のいいことだけを見つめる。そんな自分が嫌いで仕方がなかった。自分と向き合うことすら出来ない臆病者と言われている気がして、恥ずかしくてならなかった。ずっと、そんな自分を変えたいと思っていた。
自分を変えようとして、死に物狂いで藻搔き続けた。自分と向き合おうとしてに努力だってした。それでも結局、その努力が報われることはなくて。次第に、いつまで経っても臆病者のままなのではないか、と自分でも考えるようになっていった。
いつしか、孤独感を感じるようになっていた。違うと分かっているのに、変われない自分だけが取り残されてしまっているのではないか、と思えて仕方がなかった。その思考が、ゆっくりと首を絞めつけていく。慢性化した孤独が心を蝕んでいくのがよく分かった。
いつになったら自分と向き合えるようになるのだろうか。
朦朧とした頭の中で考える。視界がぼやけていって、意識が遠のく。ゆっくりと瞼が落ちていく。朧気になった記憶を抱えながら、わたしは意識を手放した。
背丈の数倍もある紙の束───文字通りの書類の山がわたしを取り囲んでいる。見渡した限りだと、周囲に逃げ場はないようだ。しっかりとわたしを包囲して、取り逃がさないように積み重なっている。果たしてここから出られるのだろうか、という不安が心の中に積み重なっていく。
危機的状況には慣れているつもりだった。それでも、いざこんな状況に放り込まれるとなると、思考は上手く働かないものだ。実際、既に脳内は混乱によって覆いつくされてしまっている。このままではまずい。そう判断して、深呼吸をする。取り込まれた新鮮な空気が、脳内を覆う混乱を振り落としていく。深呼吸を繰り返した末に、わたしは平静を取り戻した。
そういえば、ここは何処なのだろうか。
平静さを取り戻した頭の中に疑問が浮かび上がる。気が付いた時には既にここにいたので、明確な所在地は分からない。ただそれでも、ここがまともな空間でないことだけは想像に難くない。状況から推測する限りでは、何かしらの異常空間の内部と考えることが妥当だろうか。
そもそも、今は何時なのだろうか。時間を確認しようとして左手首を見るも、そこに普段着用している腕時計は無かった。というか、所持品はどうなっているんだ。連鎖的に疑問が浮かび上がってくる。半ばパニックになりながら所持品をチェックする。
ない。通信端末も発信機も持っていない。あるのは普段使いの眼鏡一本だけ。身体の底から湧き出た焦りが、汗として額に現れる。待ってくれよ、これじゃあどうしようも出来ないじゃないか。そう呟いても、反応が返ってくることはない。
どうしたらいいんだ。自分に問いかける。通信端末や発信機を持っていない以上、助けが来ることはないだろう。つまるところ、この状況から抜け出すためには、自力で現状を打開しないといけないわけだ。止まりかけていた思考を、全速力で回転させる。
真っ先に浮かんだ考えは「書類の山を倒す」というものだった。これじゃあ駄目だ。浮かび上がった考えを即座に捨て去る。紙とは言えど、積み重なればそれなりの質量と重量を持つ。バランスが崩れてこちらに倒れてきたら、ただでは済まないだろう。
頭の中でアイデアが浮かんでは消えていく。そのアイデアの中に有意なものは存在していない。その事実が焦りとして蓄積されていく。思考を回し続けて数分が経った頃、わたしは現状を打開することが不可能だということを悟るに至った。このまま何も出来ずに死んでいくのだろうか。
わたしは大丈夫だ。ここで落ち込んではいけない。そう自分に言い聞かせることで死の可能性を振り払おうとするも、浮かぶ考えは悲観的なものだけだった。本当に大丈夫なのだろうか。誰にも気付かれることなく死んでしまうのではないか。負の感情が溢れ出して、わたしの心を飲み込んでいく。
助かる見込みがないことを知って、その場に崩れ落ちる。もう、わたしには何も出来やしないのだ。憂鬱で絶望的な気分が全身に広がっていく。眼前に立ち塞がる絶望感から目を背けようとして、目線を下げる。そうして視界に入ってきたものは、一枚の書類だった。
何が書かれているんだ?
疑問が浮かび上がる。もしかしたら脱出の手掛かりかもしれない。そう思った途端に、急に活力が湧いてきた。助かるかもしれない、という淡い期待を抱きながら書類を拾い上げて、書かれている内容に目を通す。読み取った文字が脳内で映像に変換されていく。
そうして脳内に浮かび上がってきた情景は、わたしが幼少期に体験した記憶と同じものだった。忘れたはずの無数の記憶が呼び起されていく。まるで日記帳を目の前で朗読されているかのような恥ずかしさが心の中に湧き上がってくる。
やめてくれ。もう見たくないんだ。早く終わってくれ。そう思っても、書類から視線を離すことは出来なかった。吸い寄せられるようにして、書類に目線が固定されている。強制的に過去と向き合わせられるこの現状が、どうしようもなく嫌だった。そうして暫く書類を見ていると、ある疑問が浮かび上がってきた。
何故、わたしの過去が記録されているのだろうか。
単純で、根本的な疑問。どうしてすぐに気付かなかったのか不思議でならない。記憶影響の類だろうか。異常の関与を視野に入れたうえで、再度思考を回転させる。認知機構は正常だ。記憶機構も同様。ということは、異常は関与していないということになる。
頭の中がクエスチョンマークで埋め尽くされていく。異常が関与していないなら、何故わたしの過去が記録されているんだ。もう、何がなんだか分からなかった。ぐちゃぐちゃになった思考回路はショート寸前だ。もう考えることは止めた方がいいのかもしれない。
そう考えた途端に、周囲を強い風が吹き抜けていく。書類の山が崩れ去って、大量の紙が宙を舞う。視界全体を白紙が覆いつくしていく。そうして少し時間が経って風が止んだ頃には、書類の山は跡形もなく消え去ってしまっていた。ぐちゃぐちゃになった思考回路は、いつの間にかリセットされていた。
目の前に広がった光景は懐かしいものだった。小学校からの下校中に寄り道した時に通った一本道。頭の上には茜色の空が広がっている。今にもカラスが鳴きだしそうな夕焼けを眺めながら、わたしは幼少期に感じていた、漠然とした窮屈さを思い出していた。
型にはまって生きることが嫌いだった。明確な理由は分からない。子供なりに何か思うところがあったのかもしれないし、単純に自由を求めていただけかもしれない。もしかしたら、明確な理由なんて無いのかもしれない。今となっては知ることさえ出来ないわけだが。
ただ分かることは、型にはまって生きることに退屈さを覚えていたことだけだ。確かに、型にはまって生きることは楽だ。余計な苦労も負わなくていい。それでも、それだけが全てとは思えなかった。もっと自由に生きてもいいのではないかと、そう考えていた。

空が暗くなっていく。夕焼けの赤色と夜空の藍色が溶けて、混ざって、広がる。夜に追いつかれてしまうわけにはいかない。そう考えたわたしは、歩く速度を上げることにした。そうして歩き続けて数分。目の前に曲がり角が現れる。夜はすぐそこまで迫ってきている。意を決して、曲がり角を曲がる。
曲がり角の先には、薄暗い部屋が広がっていた。何故、ここに部屋があるのだろうか。引き返そうとして振り返るも、そこにあるのは無機質な壁だけだった。見た限りではドアは見当たらない。直感的に、部屋の中に閉じ込められてしまったことを理解する。
とりあえず、脱出口を探さなければ。そう考えて、部屋の中を調べる。それでも出口は見当たらない。代わりに見つかったものは、見覚えのある机やベッドといったものだけだった。収穫なし。見慣れた情報が均一に配置された部屋の中で、ぼそりと呟く。
はあ、と深いため息をついて、ベッドの上に座る。一旦、休憩しようか。そう考えた瞬間に、張りつめていた緊張の糸がゆるゆると解けていく。ここからどうしようかな、と考えながら天井を見上げる。そこには、一体のてるてる坊主が吊るされていた。
自由とはある種の呪いではないのだろうか。
心の中で呟く。異常性を手に入れたわたしは、世間一般で言うところの常識の枠組みから外れてしまった。何にも縛られることのない自由を手に入れることが出来た。もちろん、最初は大喜びした。追い求めていたものをという事実が、何よりも嬉しくてたまらなかった。
でも、喜びが長く続くことはなかった。一週間が経った頃には既に喜びに対する熱は冷めきってしまっていた。追い求めていたものは「普通」に変わって、日常の中に遍在するようになってしまった。日常にばら撒かれた自由がわたしを締め付けていく。この世の全てから外されてしまったかのような、圧倒的な孤独感が心の中を支配していく。
最終的に、わたしは自由を恐れるようになってしまった。
今になって考えると、随分皮肉な話だな、と思う。追い求めていたものに苦しめられるなんて、傍から見れば滑稽以外の何物でもないだろう。当人ですらそう考えるのだから、周りもそう考えているに違いない。心の中で、自分に言い聞かせるようにして呟く。
ふと、手の内に違和感を覚える。布のような感触。正体を突き止めようとして手を開くと、そこにはクシャクシャになったてるてる坊主が存在していた。顔の部分には曇りない笑顔が描かれている。まるで自分の不幸な様子を笑われているみたいだ。そう考えた途端に、どうしようもない怒りが湧き上がってくる。
湧き上がる怒りに任せて、てるてる坊主を床に投げつける。投げつけられたそれは、ふわふわと宙を舞った後に床に落ちた。顔面は床の方を向いている。これであの忌々しい表情を見なくてよくなった。そう考えた途端に、心の中がスーッと晴れ渡っていく。
大きく息を吸い込む。怒りのボルテージが急速に下がっていくのを感じる。全身にともっていた熱が体外へと放出されていく。この程度のことで怒ってしまうなんてな。額に浮かんだ汗を服の袖で拭きながら、「大人気なかったな」と反省する。
そろそろ休憩を終わろうかな。そう呟いて、ベッドから立ち上がる。その直後、部屋全体を大きな揺れが襲う。立っているのもやっとな程の揺れに耐えながら、視線を落とす。そうして視界に入ってきたものは、中心から外に向かって広がるようにして、ガラガラと崩れ落ちていく床だった。
一体、何が起きている?
唐突な状況の変化に一瞬思考が停止する。その数コンマ後に、危機的状況に陥っていることを理解する。床だったところを見ると、そこは底なしの暗闇へと変化していた。あの暗闇へ落ちてしまったらどうなるのだろう。奈落に叩きつけられて死んでしまうのか、それとも永遠に落ち続けるだけなのか。
「もしも」の思考が絶え間なく浮かび上がってくる。助けてくれ。そう叫ぼうとしても、声が出てくることはなかった。その事実が恐怖心に拍車をかけていく。死にたくない。その一心で部屋の壁を叩き続ける。それでも、反応が返ってくることはなかった。
じわじわと暗闇が迫ってくる。心の中で恐怖心やら不安感やらが混ざり合っていく。どうしようもなくなった感情が身体を突き動かし続ける。最終的にわたしは半狂乱になって、自らの意志で底なしの暗闇の中へと身を投げていた。浮遊感だけを感じていた。
コンクリートの床の上で目が覚めた。どれくらい眠っていたのだろう。寝ぼけた頭で考えながら、身体を起こして立ち上がる。固い地面でずっと寝ていたせいか、全身が凝り固まってしまっている。軽く上体を逸らしてみると、背骨はポキポキと鳴った。相当凝り固まっていたようだ。
今の自分を取り巻く状況を把握しようとして、周囲を見渡す。上下左右前後、わたしを取り囲む全ての面が、コンクリートの壁によって固められている。前面の壁には金属製の扉が取り付けられているが、押しても引いても開くことはなかった。これじゃあまるで独房じゃないか。
自分から見て右側の壁に取り付けられた壁掛け時計の針は、三時十五分を示した状態で止まっている。壊れてしまっているのだろうか。そんなことを考えていると、前面の壁に取り付けられた金属製の扉が、蝶番の擦れる音と共に開いた。扉の向こうには銃器を持った男が立っている。男はこちらを見るや否や、冷徹な口調で言い放った。
『D-15621、部屋から出ろ』
D-15621。どうやらわたしのことらしい。前後の状況から察するに、どうやらわたしは財団にDクラス職員として保護されたようだ。Dクラス職員が命令に背いた場合の処遇は知っている。即時射殺だ。殺されるのはごめんだ。心の中で呟いて、収容房の外に出る。
『ついてこい』
そう言ってすぐに男は歩き出した。男の背中を追うようにして、わたしも歩き始める。他のDクラス収容房の扉は閉まっているようだ。無機質な廊下をただひたすらに歩き続ける。会話はない。わたしと男、二人分の足音だけが廊下に響き渡っている。
『こっちだ。早くしろ』
そう言って、扉を開ける。連れてこられた先は、インタビュー監視室だった。一体、誰がいるのだろうか。マジックミラー越しに、インタビュールームを覗き見る。そうして目に映ったものは、まぎれもない自分の姿だった。ガラス一枚隔てた先の空間で、もう一人のわたしはインタビューを受けているのだ。
『よく見ていろ。これがお前の背負っている悩みと言うものだ』
男が語り掛けてくる。ガラス越しに聞こえてくる一連の応酬は、頭の中で決められた形へと変化していった。
インタビュー記録 D-15621

[記録開始]
インタビュアー: それでは、インタビューを始めていこうと思います。準備はよろしいですか?
対象: はい、大丈夫です。
インタビュアー: それならよかったです。今回のインタビューは貴女がどれだけ自分のことを理解出来ているかについて調べる為のものとなっています。当たり前ですが、嘘は吐かないようにしてくださいね。
対象: 分かりました。
インタビュアー:それでは早速質問していきますね。……貴女の名前と出生日について答えてください。
対象: わたしの名前は双雨 照フタサメ テルです。出生日は1999年の8月9日であると記憶しています。
インタビュアー: 記録との大きな齟齬はないですね。では次の質問です。……貴女の家族構成について答えてください。
対象: 母親と父親と……双子の弟妹、ですかね。
インタビュアー: こちらも記録との大きな齟齬はないですね。では次の質問に移ります。……貴女の保持している異常性について答えてください。
対象: 二つのてるてる坊主がわたしの周りをついてくる……というものです。
インタビュアー: なるほど。データベースの情報と一致してますね。では聞きたいのですが、その異常性の発現のきっかけとは何だったのでしょうか。
対象: ……日翔と星香───わたしの弟妹の死、だと思います。二人が死んでから出てくるようになったので。確証も何もない話ですけどね。
インタビュアー: これについても、収容時インタビューの時の回答と違うところは無いですね。ところでですが、貴女は自身の弟妹が死んだ時に何を感じましたか?正直に答えてくださいね。
対象: 普通に悲しくてショックでしたが───
インタビュアー: 本当にそうだったのですか?もう一度言いますね。正直に答えてください。わかりましたか?
対象: ……本当は、どうでもよかったんです。誰が死のうと、わたしには関係なかったんです。血の繋がった家族を失ったっていうのに、こんなことを考えるなんて。最低な人間ですよね。
インタビュアー: つらいことから目を背けずに答えてくれてありがとうございます。これなら、あの質問にも答えられますかね。
対象: あの質問、とは?
インタビュアー: 今から言うので待ってくださいね。……貴女は一体、何者なんですか?
対象: わたしが何者か、ですか。
インタビュアー: そうですね。答えられそうですか?
対象: [数分間の沈黙] ……すいません。答えられそうにない、です。
インタビュアー: まあ、仕方ないですね。また今度聞かせてもらうことにしましょうか。
対象: ……本当に申し訳ないです。
[記録終了]
インタビュアーがインタビューの終了を宣言する。それと同時に二人は席を立って、部屋を後にした。誰もいない現実だけがガラスの向こうの部屋の中に残っている。少なくとも、もうインタビュールームは見なくてもいいだろう。そう呟いて、ガラスから目を離した。
ふと横を見る。先程までここにいたはずの男の姿は見当たらない。既に退室してしまったのか。部屋から出ようとして、違和感に気付く。ドアがない。というより、壁がなくなっている。四方を取り囲んでいたはずのコンクリートは消えて、代わりに果てなく続く平野が広がっている。

あてもなく平野を歩き回って数分が経った頃、前方に構造物を見つけた。なんだろうか。走って近づいて、その正体を確認する。そこにあったのは木製の本棚だった。白く塗装された本棚が、平野の中に取り残されているようだ。棚の中には隙間なく本が置かれている。
どんな本が置かれているのだろうか。小説なのか、コミックスなのか。棚から一冊の本を取り出して、無地の表紙をめくる。ページには何も書かれていない。どうやら、ただの"白い本"のようだ。読む価値はない。そう判断して、本を閉じる。そうして表紙が再び目に入った時、そこには人間の口をデフォルメしたかのような絵が描かれていた。
一体、この絵はいつ出現したんだ?
考える。思い当たる節はない。少なくとも、本を開いた時には存在していなかったわけだ。中身を読んでいる間に現れたか、もしくは突如として現れたと考えるのが妥当だろう。自分の中で結論を下して、本を棚に戻そうとする。その時、手元から声が聞こえたような気がした。気のせいだろうか。落ち着いて、手元に意識を向ける。
『お前はここで何をしているんだ?』
確かに声が聞こえた。自分のものと何一つ変わらない声。喋っている人を探そうとして周囲を見渡すが、誰も見当たらない。何かがおかしい。思案しながら、自分の手元を見る。手に持っているものは、デフォルメされた口の絵が描かれた一冊の"白い本"だけだ。
まさか。
浮かび上がった疑念に従って、"白い本"の表紙を見る。ビンゴだ。表紙に描かれている口の絵が動いている。それは明らかにおかしくて、恐ろしいことのはずなのに。わたしの思考が恐怖と疑念を生むことはなかった。ついに思考までおかしくなってしまったのかと、少し不安になる。
『なあ、聞いてるのか?』
口の絵が動いて、言葉を発する。先程と比べて、声色は少し強いものになっていた。問いかけに対して返事をしなかったことが癪に障ったのだろうか。半ば仕方なく「聞いてますが」と答えると、口の絵はさっきよりも大きく動き出して、声を発した。
『聞いてるなら返事くらいしてくれよ。聞いてないと思うだろ』
「すいませんね。考え事してたもので」
『よく言うよ』
口の絵は若干不満げに吐き捨てた。中々にめんどくさいやつだな。抱いた印象を言葉にして、脳内で反芻する。まるで昔の自分を見ているようで、嫌気がさしてくる。本棚に戻してやろうかとも考えたが、とりあえずは会話するのもありかもしれないと思った。
「そもそも、貴方は誰なんですか」
まずは相手の正体を突き止めることが優先だろう。そう考えたわたしは、口の絵に向かって問いを投げかけた。数秒の沈黙が場を包んでいく。一瞬黙り込んだ口の絵が、再び動き出す。短くて、それでいて明確な答えが言葉として飛び出してくる。
『わたしは双雨 照───貴女と同じ存在だよ』
「わたしと同じ存在?」
『ああ、そうさ。正確に言えば片割れとかそんな感じのものだけど、わたしが貴女であることに変わりはない』
「なるほど」と相槌を打つ。本当に自分の片割れなのか、ということについてはこの際どうでもよかった。なんで自分の片割れが目の前で、"白い本"として存在していることが疑問に思えて仕方がなかった。そのことについて、思い切って問いかける。
「そういえば、なんで貴女はわたしの前に現れたんですか?」
『なんでって、明確な理由はないけど』
「理由がない? なんとなくで現れたってことですか?」
『まあ、そうなるね。強いて言うなら、ちょっと貴女と話したいことがあったから、かな』
「話したいこと?」
新たな疑問が生み出される。どんなことを話すというのか。わたしにはさっぱり分からなかった。思考を巡らせても、答えは出てこない。そうして一人で考え続けているわたしに対して、口の絵は淡々と、それでいて丁寧に言葉を投げかけた。
『そうとも。それじゃあ、早速だけど話に移っていい?』
「大丈夫ですが───一体どんな話なんですか?」
『なに、なんてことないことさ。それじゃあ、いくね』
「わかりました」
相槌を打つ。それを確認するや否や、口の絵は言葉を発し始めた。
『ずっと思ってたんだけどさ、貴女って昔から変わってないよね』
「えっと……それはどういう」
『そのままの意味だよ。貴女、自分のことを理解しようとしていないだろ?』
後頭部を思い切り殴られたかのような衝撃が走る。違う。わたしは自分のことを理解しようとしている。そのために死に物狂いで藻掻き続けたんだ。結局は変われなかったけど、その事実は残っている。片割れごときにわたしの何が分かるって言うんだ。
「そんなことないですよ。わたしは自分を変えようとして───」
『物事を都合よく解釈する癖も変わらないみたいだな』
「それは、どういう……」
『いいか。貴女が今までやっていたことは、所詮自己満足に過ぎないんだ。上っ面だけ変わろうとして成功するわけがないだろ?』
片割れの言葉に気圧されて、思わず押し黙る。違う、自己満足なんかじゃない。わたしは必死に藻掻いていた。そう言おうとしても、反論を示す言葉は出てこなかった。俯きながら黙り込む。そんなわたしに対して、片割れは更に言葉を続けた。
『結局のところ、貴女は臆病者のままだ。つらいことから逃げ続けてちゃ、ここは一生変わらないぞ』
「でも、変わるかどうかなんて分からないんじゃ───」
『いいや。わかるさ。だって、わたしは貴女の片割れだ。自分のことくらいよく知ってるさ』
投げかけた反論はことごとく打ち消されてしまった。片割れで、自分のことを理解している。その事実が発言に説得力を与えていく。どうにかして片割れを否定してやりたかったけど、今のわたしにはそれが出来ないように思えて仕方がなかった。
『今も昔も、貴女は向き合うべきことに目を向けないだろ?』
「それは───」
『だから、貴女は自分のことを見失うんだ。向き合うべき物事に向き合わない限りは、貴女は自分のことを定義することは出来ないからな』
片割れが強い口調で言い切る。発現には反論を許さないかのような説得力が宿っていた。発言の圧に押されて言葉が出てこない。それでも必死に振り絞って声を出す。そうしてわたしの口から出てきた声はか弱くて、震えていた。震える声で、言葉を紡ぐ。
「違い、ます」
『というと? 自分のことを定義出来ると言いたいのか?』
首を縦に振って肯定の意志を示す。「そうか」と片割れが呟くようにして発言する。二人の間に沈黙が流れていく。それから数十秒が経った頃、二人の間に流れていた沈黙は、片割れの放った言葉によって破られた。それに釣られて、わたしも口を開く。
『自分のことを定義できるのだと言うのなら、わたしの質問に答えてくれ』
「質問、ですか」
『ああ。これに答えられたら、わたしは大人しく引くことにしようと思う』
「わかりました」と相槌を打つ。緊張感が膨れ上がっていく。それでも、ここで引くわけにはいかないのだ。心の中で自分に言い聞かせる。片割れが、言葉を発した。
『貴女は、一体何者ですか』
思考が停止する。わたしがこの類の質問に答えられたことはない。どう答えればいい。止まってしまった思考回路を無理やり動かす。考えが脳の中を巡っていく。わたしが何者かなんて考えたことがなかった。考えないでも生きていけると思っていた。
それでも、そんなことはなくて。現に今みたいに、考えて答えないといけない時がやってきて。結局は片割れの言う通りだ。自己満足で努力した気になって、向き合うべきことに向き合わないで。わたしはいつも逃げていたんだと強く実感した。
だったら、わたしは───。
「自分が何者かなんて、わたしには分からないです」
『……やっぱり答えられないじゃないか』
「こんな簡単に、自分が見つかるわけないじゃないですか」
『……ほう』
「わたしは自分と向き合う必要があるんです。自分を見つめて、理解する必要があるんです」
『それで?』
「だから、わたしはもう逃げるわけにはいかないんです」
強い口調できっぱりと言い切る。これが、わたしなりの答えです。最後にそう付け足して、口を閉じる。ようやく、わたしは自分と向き合うことが出来た。
『なるほど。それが貴女の答えというわけか』
「はい」
『……ならもう、わたしから言うことはないな』
片割れが相槌を打つ。声音は満足気なものに変わっていた。"白い本"の表紙に描かれていた、デフォルメされた口の絵が消えていく。"白い本"はいつの間にか、一体のてるてる坊主へと変わっていた。その表情は笑っている。不思議なことに、もう怒りは湧いてこなかった。
周囲に霧が立ち込める。段々と現実が薄くなっていって、世界の境界が曖昧になる。ふっと、身体の奥底から疲れと眠気がこみ上げてくる。そのせいか瞼が重くなって、ゆっくりと落ちていく。心の中はいつにも増して晴れやかな気分となっていた。
現実と虚構が混ざって、歪んでいく。
その光景を最後に、わたしの意識はプツンと途切れた。
耳をつんざくような目覚まし時計のアラームの音で目覚める。慣れた手付きでアラームを止めて、身体を起こす。ふと机の上を見ると、そこには"absinthe"と書かれたラベルの貼られたワインボトルが存在していた。確か、雇用一周年を記念して贈られたものだったっけ。
アブサン。"魔性の酒"と呼ばれるハーブ酒で、飲んだ人は不思議な夢を見ると言われている。そぅいえば、変な夢を見ていた気がするな。自分を見つめ直すような、そんな夢だった気がする。鮮明には覚えていないし、記憶違いかもしれない。それでも何故か、そう思えて仕方ないのだ。
軽く伸びをしながら頭を掻く。残っていた眠気が欠伸として漏れ出る。昨夜は酒を飲み過ぎだせいか、頭が少し重い気がする。それでも今日は仕事があるし、休むわけにはいかない。仕事をすることに億劫さを覚えながら、ベッドから降りる。足が床のフローリングにつく。
パパっとスーツに着替えて、所持品をチェックする。腕時計も通信端末も発信機も、すべて持っている。机の上に置かれた普段使いの眼鏡を取って、装着する。多少ぼやけていた視界が鮮明になっていく。そうだ、今は何時だ。左手首に巻きつけられた腕時計を見る。現在時刻は午前八時。職員朝礼まではあと一時間だ。
職員朝礼に遅刻するわけにはいかない。手早く朝食を済ませて、オフィスに向かわなければ。となると、まずは食堂に向かう必要があるな。ネクタイを締めて、靴を履く。とんとん、とつま先で地面を蹴って、靴のフィット感を調整する。
「それじゃあ、行ってきます」
そう呟いて、自室の扉を開ける。後ろで扉が閉まったことを確認して、サイトの方へと歩いていく。職員寮の廊下には朝日が差し込んでいた。窓の外を眺めると、そこには雲一つない快晴が広がっている。窓から入ってくる風を全身で浴びて、歩みを続ける。
かくしてわたしは、新たな日々への第一歩を踏み出したのだった。