「ゔっ」
腹の奥から込み上げてきた嫌悪感を、吐き気と共に体外に押し出す。無機質な監視室に充満する吐瀉物の酸い匂いが、鼻の奥を突き刺していく。涙で滲んだ視界が眩んで、また吐きそうになる。気持ち悪さを押さえ込みながら、ふらふらとした足取りで立ち上がった。
備え付けのゴミ箱と持参したゴミ箱の中身は、エチケット袋で満たされていた。テーブルに手をつきながら、乱れた呼吸を整える。そうしていると、背後でドアの開く音がした。
「相変わらずだな。この部屋も、お前も」
先輩の声が部屋に響く。決して高いわけではないその声も、今の自分には金切り声のように響いて聞こえる。いつも以上に重く感じる頭を抑えながら、僕は声を振り絞った。
「……お疲れ様、です」
「お疲れ様。あとは俺がやるからさ、もう下がってていいよ」
そう言った先輩に会釈をして、監視室を後にする。ふらついた足取りが、いつも以上に重く感じた。
◆ ◆ ◆
処置室から少し離れた通路にて。先輩を待っている中、僕はカメラ越しに見た、彼女の顔を思い浮かべていた。ぐちゃぐちゃに顔を歪めた彼女の顔が、次々とフラッシュバックしていく。心苦しさを覚えた僕は、ぶんぶんと頭を振って、浮かび上がってくるイメージをかき消した。
これは自分の使命なのだ。世界を守るためにも、成し遂げないといけないことなのだ。何度も自分に言い聞かせていく。それでも、僕はこの行為を許容する気になれなかった。殺人鬼にでもなれば楽なのだろうか。そう考えながら、時計に目をやる。
現在時刻は午後7時。処置の終了まで、まだ30分も残されている。
――彼女はまだ苦痛の最中にいるのだろうか。
ふと考えてしまう。苦しむ彼女の顔が、再び浮かび上がってくる。助けを求める目つきが、僕の心を刺していく。気持ち悪さがこみ上げて、その場にうずくまる。
……また吐きそうになった。
◆ ◆ ◆
「はあ……」
サイト内ラウンジの一角にて。備え付けられた椅子に座りながら、深いため息をついた。心の中に溜まった暗い感情を、ため息と共に吐き出していく。しかし、どれだけ息を吐いても心が軽くなることは無かった。
正直言って、今の仕事は嫌いだ。世界を守るためとは言え、幼い少女を痛めつけるのは気分が悪い。処置の最中の彼女の顔や声が、脳裏に焼き付いている。助けて欲しいという絶叫が、僕の首を絞めつけていく。
本当に、痛めつける必要があるのだろうか。
ぼそりと呟く。そうして項垂れていると、頭の上から聞きなれた声が聞こえてきた。それに反応して、ふっと頭を上げる。そこに立っていたのは、僕の先輩だった。
「どうした? 調子悪そうな顔して」
「ええ、まあ。ちょっと色々考えてて」
「そうか」
そう言って、先輩は僕の隣の椅子に腰掛けた。「飲め」と言わんばかりに差し出された缶コーヒーを受け取る。それでも、僕は口に物を入れる気分には慣れなかった。そんな僕を見た先輩が、声を掛けてくる。
「飲まないのか」
「ああ、いえ。……飲む気になれなくて」
「そうか。……お前、モントーク処置のことで悩んでるだろ」
先輩が言う。放たれたのは予想外の言葉だった。驚きのあまり、「えっ」と声が漏れる。驚きを隠せずにいる僕に対して、先輩は言葉を発した。
「その反応は図星だな」
「……なんでわかったんですか」
「なんでって、いつも処置の時に吐いてるだろ? なんか気負ってるのかな、って思ってさ」
「……そう、ですか」
弱々しい声で話す僕に対して、先輩はこう言った。
「もし良かったら、悩みについて話してくれないか?」
「……わかり、ました」
そう答えた僕は、口々に悩みを打ち明けていった。処置に対する罪悪感や嫌悪感など、思っていることを吐き捨てていく。一通り話し終えた段階で、先輩は口を開いた。
「お前さ、誰かに記憶処理した事ってあるか?」
「記憶処理ですか。したことはありますが――それがどうかしましたか」
「記憶処理ってさ、ある意味の殺人なんだよ」
思考が止まる。時間が止まってしまったかと錯覚するような静寂が空間を満たしていく。そしてその静寂は、僕の声によって崩れ去った。
「記憶処理が殺人、ですか」
「そうだ。記憶や人格を消すことは、殺人とイコールなんだよ。少なくとも、俺はそう考えてる」
「でも、それとこれとどう関係が――」
僕が言葉を発する。それを遮るように、先輩が言う。
「お前はさ、記憶処理に罪悪感を感じたことはあるか?」
「……ない、です」
呟くようにして答える。それを聞いた先輩は、捲し立てるように話した。
「だろうな。財団で記憶処理に罪悪感を抱くやつなんてそうそういないし。だけど――」
「だけど?」
「記憶処理は立派な殺人なんだ。散々人の心を殺しておいて、自分が殺されそうになると逃げるのか?」
「それ、は――」
思わず押し黙る。それを見た先輩が、僕に向かって言い放つ。
「お前の手はもう真っ黒なんだよ。だから――今更何を恐れる?」
黙り込む僕をよそに、先輩が立ち上がる。そして、声を発した。
「言い過ぎたかもしれないが、そういうことだ。あんまり気負う必要はないってことさ」
そう言い残して、先輩はラウンジを後にした。心の中には、先輩の言葉がまだ残っている。その言葉を整理して、反芻していく。
反芻した言葉を咀嚼する。そうして、僕は自分の正体に気付いた。
――そうか、僕はもう殺人鬼なんだ。
心の中で呟く。自己を理解した僕は、椅子から立ち上がった。その表情は虚ろで、感情なんて宿っていなかった。
◆ ◆ ◆
「失礼します」
そう言って僕は、監視室の扉を開けた。ふと監視室内を覗くと、そこにはいつも通りの光景が広がっている。
「おう。今日はエチケット袋持ってきてないのか?」
からかうようにして、先輩が問いかける。それに対し僕は、淡々と言葉を返した。
「もう大丈夫ですよ。恐れるものは何も無いんですから」
そう言った僕の顔は、無機質に笑っていた。