早朝のサイトはどこか不気味だ。そこかしこに存在する物陰はいつもよりも薄暗く、漠然と「中に何かいるのではないか」と思ってしまう。まるで一人だけ異世界に来てしまったと錯覚してしまうかのような孤独と静寂が早朝のサイトにはあるのだ。
そんな薄暗く不気味な廊下をわたし 梅川晴香 は台車を押して進んでいく。目的地は資料室。コツコツという足音と、ガラガラという車輪の回る音が廊下に響く。……何もこんな早朝に頼まなくてもいいのに。そもそも芸術関連の資料が欲しいなら芸術専攻の人を頼るべきだろう。自分は超常心理学にしか詳しくないのだから、役に立てるかなんてさっぱり分からないのに。そんな風にぽつぽつと愚痴を零していると、中庭の近くに差し掛かった。そうだ、と呟き中庭に向かって歩き出す。
理由は単純、その方が早く資料室に到着するからである。そして屋内とは違い、早朝の中庭にはどこか幻想的な雰囲気を感じる。空から差し込む微かな日差しと、朝露によって濡れた土の匂い。心が落ち着いていくのを感じながらわたしは石畳の上で台車を押していた。
その時、ふと視界の端に何かが映った。
なんだろうか。もしや、本当に「何か」がいるのか。恐る恐るその方向を見てみると、そこには二人分の人影があった。一体何をしてるんだろうか?そんな筈も無いのに、不審者かもとか考えてしまう自分に苦笑する。サイトのセキュリティは堅牢なのだから財団職員なのは間違いない。状況的に別段危ないことは無いと判断して近寄っていく。
その途中であることに気付いた。二人分の人影、その足元に誰かが横たわっているのだ。その誰かは微動だにせず、まるで死体のようだった。そう考えると同時に背筋がゾワッとした。もしあれが死体で、人影が殺人犯だったら。そう思うと恐怖でいっぱいになってしまった。でも、見たからには無視できない。目撃者として情報を伝えなければ。そう思いながら、そっと、息と気配を殺して近づく。音を立てないように、そっと
その時、足元からパキッという音が鳴った。ふと下を見るとそこには折れた木の枝があった。どうやらわたしはそれを踏んでしまったらしい。まずい、バレてしまう。そう思って逃げようとするも、どうやら遅かったらしい。わたしの目の前には一人の男がやって来ていた。頭の中で「逃げなきゃ」という言葉が反響している。脳が危険信号を絶えず発している。だというのに、腰が抜けてしまって動けない。辛うじて口から出た言葉は「たすけて」の一言だった。
それを聞いた男が「落ち着いて」と言う。乱れていた呼吸を整えながら男の顔を見る。そこにあった顔はわたしにとって見覚えのあるものだった。
「猿児、さん……?」
「とりあえず、今から救護を呼ぶところです。ヤマトモくんが倒れてまして」
どういうわけか、猿児さんは自分の唇に指をあてがったジェスチャー 静かにするよう促すもの をしつつ、わたしに対して小声で言った。
「え、てことは……えーと、つまり……?」
「梅川くん、あなたが第3発見者です。彼、蜂を見て気合いが空回ったらしくてですね……」
「蜂……?」
数秒の思考の間を置いて、頭の中にあった疑問符が消えていく。それに伴って自分の置かれている状況を理解したわたしは「大変じゃないですか……!」と声を上げた。というか蜂って、まさか。
裏庭の隅に倒れた黒い人影 猿児さん曰くヤマトモさんらしい の上方を見上げると、2階の高さにある窓枠の下に、土褐色でマーブル模様の歪な球体が鎮座しているのが目に付いた。一瞬「あれはなんだろう」と思ったものの、わたしはその正体をすぐに理解した。テレビで見るような、典型的なスズメバチの巣だ。
「気をつけて、そうです、刺激しないよう、大声は出さずに」
猿児さんはわたしが、日本一危険とも言われる虫のテリトリーを目の前にして冷静かつ的確な判断を下したと思ったらしい。しかし、本当はそうじゃない。虫に対する恐怖のあまり、腰が抜けて声も出ないだけだ。わたしは虫が苦手なんだ。あんなに小さいのにたくさんいるのとか、本当に意味が分からないじゃないか。
わたしが固まったままでいると、先程まで猿児さんと一緒に立っていた白衣の女性がわたしの傍まで、足音を殺した後ろ歩きで近づいてきた。
「あたしが通報しとくから。とりあえずおめーらも裏庭から出ろ」
「了解です。頼みましたよ、ドクター・屑川」
石のように硬直してしまったわたしの傍らで、わたしより前の発見者2人はヒソヒソ声でしっかりと連携を果たしたのだった。
中庭を後にして、少し離れた廊下を歩いていく。早朝であるが故にまだサイト内を出歩く職員も少ないようで、すれ違ったのは今のところ、腕章を外した警備員の2人組とだけ。夜勤からの交代を終えて疲れた様子の彼らはきっと、これから眠りにつくのだろう。
財団という組織が管理しているこのサイト内、アノマリーやDクラスの脱走があれば各所で見張りを務める警備員たちから緊急アラートがサイト全体に飛び、収容スペシャリストや機動部隊といった物凄い肩書の人たちによって鎮圧される仕組みになっている。サイトでの身の安全は、あの人たちに護られている。
だからこそ、彼らの対応対象ではない "非異常の脅威" は妙に身近で、独特な怖さがあった。
「それにしても、スズメバチかあ」
わたしはさっきの出来事を思い出していた。まさか蜂の巣 しかもスズメバチのもの があるとは予想もしていなかった。それに、無謀に突撃して刺される職員が出ることも。どうやら巣は担当部署によって撤去され、蜂自体も駆除されるらしい。できるだけ早く駆除されるといいなあ、なんて思いながら廊下を歩いていた。
本当なら仕事を放ってでも逃げ出したかったが、そうはいかなかった。ファッション好きなマネキン頭に古代美術史関連の書籍を大量に閲覧させる実験が迫っているため、資料の運搬をやめるわけにはいかないのである。箕田博士 わたしの上司であり、仕事を任せた張本人 への愚痴を吐き続けていると、屑川さんがこちらに話しかけてきた。救護班への連絡を終え、ヤマトモさんの搬送までを無事に見届けてきたそうだ。
「まったく、ヤマトモも馬鹿だよな。スズメバチ相手に徒手空拳で格闘を挑むなんてさ」
「まあ、相手は宙を自由自在に飛べる蜂ですからね」
「だろ? でもまあ、ヤマトモならやりかねないってのは分かるんだよなあ」
確かに、やりかねないだろう。過去に資料室を訪れた時もそうだった。暗闇に紛れて近づき、突然目の前に出てくることで驚かせる。ヤマトモさんはそういったこと イタズラや突拍子もないこと をする人なのだ。
「馬鹿なことはするべきじゃねえなあ」
やや強めの語気で屑川さんは言った。それに対し、わたしは思わずびっくりしてしまう。なんだか怒っているような感じがしたからだ。どこかトゲトゲしい態度の屑川さんを見ながら、「何か気に触ることをしてしまっただろうか」と考える。でも、わたしの中に思い当たる節はなかった。気のせいかなと考えたわたしは話を続けることにした。
「そういえば猿児さんは?」
「ああ、なんか駆除作業中は遠ざけておきたいやつがいるから連れ出すとか言ってたな。今は中央棟にはいないんじゃねえか?」
「遠ざけておきたい相手……彼女さんとかですか? わたしみたいに虫嫌いで、だから見せたくないとか」
「違ぇよ。あいつ、なんやかんやの流れで保護者ポジションに収まってるらしくてな」
なるほど、と相槌を打つ。
保護者ポジションということは、連れ出したい相手はきっと子供だろう。となると、怪我させたくないから連れ出すみたいな感じなのかな。
そんなことをぼんやりと考えていると、屑川さんは立ち止まり、わたしの方を向いて言った。
「ああ、そういえばなんだけどさ」
「どうしました?」
「蜂の話、B棟では話さず内緒にしといてくんない?」
B棟。確か、屑川さんの寮がある所だっけ。
「え、どうしてですか」
「どうしてって、蜂のこと知ったら駆除しようと突撃かますヤツがいるからだよ、同居人。……私は私で保護者ポジションやっててな」
屑川さんによると、その人は「血気盛んで格闘術に長けているエージェントだが、見た目と振る舞いは子供そのもの」だそうだ。財団という組織には、結構不思議な職員たちもいるものだ。
「結構手ェ焼かされるんだよな〜」
「……」
少し沈黙して顔色を伺う。
「……あー、えっとな、その……怪我したら可哀想じゃん」
「……それは……その通りです」
「だからさ、絶対言わないでくれよ」
「わかりました」とわたしが言うと、屑川さんは「それでよし」と言って前を向いた。
少しの間だけど屑川さんと話していて分かったことがある。彼女はきっと、思っていた程怖くない。むしろ、わたしと同じ臆病寄りなのかもしれない。でもそのことを悟られたくないから強い語気と口調で誤魔化しているんじゃないか。確証はないけれども、そう思えて仕方なかった。彼女には言わないようにしておこう、と心の中で呟き、屑川さんの後ろをついていく。
しばらく歩いていると、あるタイミングで屑川さんは頭の後ろで手を組んだ。指には僅かに黒色のインクが着いている。そういえば屑川さんも美術関係の分野を研究している人だったはずだ。そして今はわたしと同じく資料室に用事があるらしい。もしかしたら資料探しを手伝ってもらえるかもしれない。そう思ったわたしは声をかけてみることにした。
「あの、屑川さんって芸術とかに詳しいんでしたっけ」
「ん? あー、まあ。一応はね」
「もしよかったらなんですけど、資料探し手伝ってくれませんか? ちょうど芸術関係の資料を集めてて……」
屑川さんは少し悩んだ後に「仕方ないなあ」と言ってくれた。すぐさま感謝を伝えると、彼女はやや照れた表情を見せた。わたしはその表情を見て、先程の推測が正しいと確信した。何だか口調は怖いけど、それは本質じゃない。そのままわたしと屑川さんは資料室のドアを開けた。
「今日はヤマトモさんのドッキリを警戒しなくて大丈夫ですし、落ち着いて資料探せます」
そう言って暗がりの中へと電灯スイッチを探し進む梅川を見て、あたし、屑川芽子は「アイツこんな所にも出没してたのかよ……」と思わず呆れ声を出す。
「それにここは資料保全で、虫とかも出ない管理がしっかりされてますし!」
パチッ、とスイッチ音がして、金属製の本棚が並んだ大部屋が照らされる。財団の各サイトの資料室の中でも結構大きめな方なんじゃないだろうか、古代から現代まで美術の書籍が目白押しだし、立体物だってある。
「ええっと……、探したいのが古代の美術資料なんですけど、アステカ辺りの出土品とかの本が欲しくてですね」
「それなら左奥の突き当りを曲がった先のスペースだ、壁沿いに行けば見つかると思うぞ」
「左奥の……あそこですね! 有り難うございます」
何か、梅川ちょっと明るくなったか? 少し前までの緊張したような怯えた感じは薄れた感じがする。
モダニズムの一画を越え、ルネサンスのコーナーを過ぎ、やがて入口のアングルからは本棚で隠れていたスペースが見えてくる。梅川の後頭部越しに眺めていると、突然の悲鳴。
「ひぇっ!?」
「どうした!?」
「あぁ、いや、ごめんなさい。これにビックリしちゃって」
「あー、テスカトリポカの仮面]]か」
ここにあるのは全パーツ樹脂製のレプリカとはいえ、人の頭蓋骨の顔面部分に鮮やかな石の欠片をビッシリ貼り付けたという、いかにもな見た目の出土品だ。目の部分にはこれまた石製のまん丸な眼球が埋め込まれていて、さながら皮膚を剥がされた人面を思わせる。
「担当者も置き場所考えてくださいよぉ! ……ふぅ。よし、台車ここに置いて本見繕って来ます」
「おう、いってら!」
しかし立体資料も豊富なのはいいが、こうしてみると確かに角を曲がってすぐに目に入るガラスケースにテスカトリポカはどうかとも思う。というかあたし自身も、ヤマトモがこれを被ってジャンプスケアをかましてきた時には普段の6割増しで心臓が縮み上がったもんだ。あれは夜遅く消灯後、流石に寝ようかとB棟宿舎の暗い廊下を歩いている時の事だった。実のところ、ヤマトモのドッキリをあたしもよく喰らっている。だけどそれを毎回返り討ちにしてくれるのが、あたしの例の同居人 エージェント・〼アノニ である。
好奇心旺盛で単純、「こうだ!」と思うと止まる事がない。成長も加齢もする事のない幼子の様な身体をしていながら、凄まじい膂力を発揮する。〼は財団という組織には偶に存在する特殊な形質を持った職員の1人だ。ヤマトモがあたしに何度も仕掛ける悪戯は、基本的に彼が〼の裏拳や投げ技で吹っ飛んでいくという形で終わる。〼には世話を焼かされるのは事実だけれど、あたしが普段の日常をビクビクせずに送れているのは結構あの子のお陰だったりする。
それに、〼が突っ込んでいく脅威というのは彼だけじゃない。食堂に虫が出た時なんて、徹底的に追い回して片っ端から叩き潰していたし
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少しして、上中下巻に分かれた分厚い図鑑を3冊セットで抱えた梅川が帰ってきた。
「このシリーズ良さそうです! まずアステカはこの3冊で!」
「お!良いの見つかったか!」
「はい! 貸出用のボックスは……、と」
組み立て式のプラボックスは、広大な資料室の中いくつかの地点にそれぞれ纏めて設置されている。テスカトリポカの向かい角に見つけたそれを台車の上で組み立て始めた梅川に、あたしは後ろから話しかける。
「そうだ梅川、虫とか苦手なんだっけ?」
「え?」
「……あー、えっとな。」
〼の姿が目に浮かぶ。食堂の机を縫って、飛び越え、あっちこっちで逃げ惑うコオロギやデビュアにアクションムービーみたいな動きで、ティッシュ箱を振り下ろす。結局あの大群は、爬虫類型オブジェクトの餌として飼われていたのが脱走して迷い込んだものだったらしいが、その時〼はよりにもよって「トカゲまでいる!」と勘違いしてレベル4職員をも追いかけ回す大立ち回りをやってのけたのだ。そして人事部の人に呼び出されて大目玉を食らっていた。あの後あたしも「財団職員いろんな人らがいるんだよ!」と、このサイトに出入りする職員のページを見せながら〼に言い聞かせまくったもんだ。
「……つまりだな、財団職員色々だから、時間ある時に人事ファイルの公開分は目ぇ通しといた方がいいぞ。」
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中庭でのトラブル対応が終わり、時刻はお昼前。
E棟ホールを歩きながら、スズメバチ発見現場仲間である屑川くんと通話をしていた。コツコツという足音が大きめのホールに響いている。
「エージェント・〼くんですか? まあ、確かに突撃不可避はそうですねえ」
屑川くんが「こっちはこっちで爆弾抱えてるのよ」と言う。それに対して私、猿児は相槌を打った。〼くんとは以前に一度だけ会ったことがある。それに故に面識はあるわけだが、確かに彼女は色々な意味で凄まじかった。
「とりま、こっちは上手く〼回避しながらそっちに情報伝えるわ」
「ええ、それじゃ屑川くん。駆除作業終わったらメールで連絡お願いしますよ」
「オーケー、こっちは任せろ。そっちこそ、しっかり双子ちゃんエスコートしてやんな」
ピッ、という電子音と共に通話が終了する。それを確認した私は、このサイトE棟で有名な待ち合わせスポットであるモネの「睡蓮」複製画真下の壁に寄りかかった。
それから2分が経った頃。遠くから声が聞こえてきた。
「あ、いたいた!」
「猿児さーん!」
そっくりな顔に異なる服装、異なる動物の特徴を持った2人の少女が走ってやってくる。彼女らとは何気に長い付き合いになる。私が財団に入ってからすぐの頃に出くわしたサイト半壊レベルの事件、そこから数年が経った今も、時折こうして交流を続けているのだ。
「あ、『キャラメルクッキー』と『フローズンピーチ』、予約大丈夫だったかな……?」
2人のうちの片方 カメレオンの特徴を持った、双子の妹 がスイーツの心配をする様子を見せた。件の事件でサイト半壊を防いだのは彼女なので、言ってしまえばかなりの規模の貸りがあるわけだ。
「ええ。限定メニュー、しっかり予約取っておきましたよ」
「やった!」
「よかった……! 私たち、ここ数日は手が離せなかったので助かりました!」
2人に与えられる権限は状況によって変化する。場合によっては、私の持つ権限を上回ることだってあるわけだ。ここ財団では「Need to Knowの原則」に則った行動が求められている。そんなわけで「作業が終わらないから予約お願い!」とだけヘルプを飛ばされ、詮索することもできずに予約を代行。元々私は同行する予定もなかったわけなのだが。
「凄く楽しみにしてたんですよ! 鈴呼ちゃん、ここのお店はイチオシだ! って言うから」
双子の姉の方である鈴音は、いつもの控えめな性格からはかなり珍しくはしゃぎながら、身体の右側に生えた翅と触角をピョコピョコと動かしている。そう、スズメバチの翅と触角である。財団に稀に雇用されている「動植物らしい」職員が持つ感情は様々だが、鈴音と鈴呼の場合はその自己認識から半人半スズメバチ、半人半カメレオンになっている。
この日に元々、限定スイーツを食べに行く予定が入っていたのは幸運だった。店はサイト内でも例の中庭からかなり離れた位置にある。この2人、特に姉の鈴音にはスズメバチの駆除 ある意味の虐殺 現場を見させるのはあまりよろしくないだろう。そんな訳で、駆除完了までは店内に引き止めておけるよう、飛び入り同行を申し入れたのだ。「常設メニューのメンチカツサンドが美味しそうだった」と適当な、しかし半分は本心でもある理由をつけて。
「とりま、こっちは上手く〼回避しながらそっちに情報伝えるわ」
スマートフォン越しに猿児と話をしながら、中庭のある中央棟へと続く廊下を歩いている。廊下は無機質で、それでいて清潔感がある。まるでドラマに出てくる大学病院の中みたいな場所だ。
蜂の駆除作業は未だに終わっていない。できるだけ早く、そして無事に駆除作業が終わって欲しいと思いながら、スマートフォンに内蔵されたマイクに向けて、
「オーケー、こっちは任せろ。そっちこそ、しっかり双子ちゃんエスコートしてやんな」
そう言ってあたしは通話を切った。E棟は、喫茶にファッションなんでも揃う、かなりお洒落でキラキラしたところだ。それこそ、あの2人にはぴったりだろう。
一人、通路に佇みながら、あたしは「はあ」とため息をついた。
「まじで、何事もなく終わればいいんだけどなあ……」
そう呟き、軽いストレッチのつもりで爪先立ちの伸びをして、何の気無しに体を捻る。 妙な気配。何事かと後ろに向きなおった瞬間、自身の視界の遠近感に、強烈な違和感を感じて立ち尽くす。
目にも空間にも異常がないことは明白だった。通路の端の常時開放された扉は20mほど先にある。ただ至近距離、視界の真下に「何か」がある。左右で白黒ツートンの髪。それを見たあたしは、思わず絶句してしまった。おそるおそる視線を下に落とすと、そこには今だけは会いたくなかった相手 〼アノニ が、にやけ顔でこちらを見上げていた。
「あれ〜、屑川じゃん。何してんの」
「あ、いや、これは」
「なになに? 隠し事はなんなのさ」
「何もないって。そうだ、一緒にゲームでもしない? ほら、最近新しいソフトが出たって言ってたし 」
そう言おうとした次の瞬間、〼はあたしの言葉を遮るようにして言った。
「え、でもなんか聞こえない? あっちでなんかやってんの?」
まさか、と思った。確かに向こうではスズメバチの駆除に際して機械を使用している。だがしかし、棟端の通路にまで響き渡るような大音量ではないはずだ。そう考えていると、〼はグイと身を乗り出して、あたしの後ろを覗こうとした。「このままだとまずい」と「どうしよう」の2つの思考がせめぎ合った結果、あたしは身を呈す形で〼の視界を遮った。
「べ、別に見るもんなんてねえし?」
だが、問題は視界ではなく音である。しかも、口から飛び出してきた言葉も酷いものだった。これではまるで、「向こう側に隠し物がありますよ」と言っているようなアクションではないか。
このままでは、〼がヤマトモ2号になる。逆にもし勝ったとしても、今度は駆除をやってる人たちが巻き添えを喰らう。ああ、だめだ。思考がまとまらない。
半ばパニックになりながら、できるだけ冷静を装いながら話を続ける。あくまで平常心を維持しながら言葉を紡いでいく。そう、そうだ。落ち着けあたし。何も焦る心配はない。いくら常人離れしている〼とは言えど、流石にそんな地獄耳なわけないだろう。
最早、自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。ひたすらに口を動かして、〼の意識を中央棟の方からこちらに向けさせることだけを考えていたときのことだった。
遠くからガラガラという まるで台車を押しているような 音が聞こえてきた。そうしていると、突然後ろから声を掛けられた。どこかで聞いた事のある声だった。
「あれ、屑川さん?」
今度はなんなんだ。
そう思いながら振り返ると、そこには梅川が立っていた。彼女が両手で押している台車にはいくつもの書類や資料が載せられている。そういえば「実験で使う資料を集めている」なんて言っていたっけ。そうして一人考え込んでいると、梅川の方から「何があったのか」と聞いてきた。一方、〼はあたしの後ろを覗き込もうとして頭を左右に激しくぶんぶん振っている。〼のフィジカルならあたしを押し退けるくらい簡単だろう。つまり、〼はあたしで遊んでいるわけだ。
梅川に耳打ちをする。そして、今の状況について大急ぎで かつできるだけ正確に 話すことにした。〼があたしで遊んでいるうちに、伝えられることを伝えておこうと思ったのだ。
「……なるほど、それはまずいですね」
「だからさ、ちょっと手伝ってくんない? あたし一人じゃ突破されちゃうだろうし……」
「……わかりました」
助かった。そう思うと同時に、安堵が押し寄せてくる。ひとまず、これでなんとかなるだろう。そう思いながら、梅川の方を見ている。
「あの、あなたがエージェント・〼ですか?」
「え、そうだけど。あんた誰?」
「わたしは梅川晴香。屑川さんの知り合いです」
「ああ! 屑川の知り合いか!」
〼はにやりと笑って、梅川に手を差し伸べた。
「じゃ、はじめましてってことで。握手しよっか」
「あ、はい」
まずい。そう思った次の瞬間。
梅川が〼の手を取る。それと同時に、〼は梅川の手を強く 手加減アリとは言えど、恐らく梅川からすればかなりの力で 握りしめた。梅川が驚いた様子を見せる。そして「痛い痛い痛い」と喚き、〼に手を離すように懇願していた。心の中で「ごめん、梅川」と呟きながら、あたしはその様子を眺めていた。
「ちょっと……何するんですか!」
「何って、挨拶だけど?」
「普通に痛かったですよ!」
あっけらかんとした様子で〼は答えた。これでも物凄く手加減したのは事実だ。梅川は若干苛ついた様子を見せながらも、平静を装って対応していた。
「んん〜!」
うん、やはり旨い。メンチカツサンドは思った通り、食べてみて大正解の味だ。柔らかなパン、シャキシャキの千切りキャベツ、そしてサクサクのメンチカツ。一口噛む度に、メンチを包む衣の下から大量の肉汁が溢れ出してくる。このサンドは3つにカットされていて、それぞれに包み紙が用意されている。最初こそ不要なのではないかと思っていたが、食べ進めていくうちに大量の肉汁と千切りキャベツを零さないための配慮なのだろうと合点がいった。
顔を上げると、通路を挟んで斜め左奥にあるカウンターに姉妹が並んで座っているのが見えた。座面の高い白黒ツートンの椅子が、木目調のカウンターテーブルと共にオレンジ色の照明に照らされている。いかにもE棟の喫茶店というような、小洒落た内装の店だ。
「ん? もしかしてさ、鈴呼ちゃんが作ってた拠点のグラフィックってこのお店?!」
「えへへ、実はちょっと意識してみたんだ。……あ! 鈴音のキャラメルクッキー来たよ!」
2人とも楽しんでいるようで何よりだ。元々は姉妹2人で行く予定だったのだから、私はノイズにならないように離れた席に座ることにした。「E棟は入り組んでるから、店の案内だけしてもらってもいいかな」という口実は上手く機能し、E棟マスターである鈴呼は得意げに道案内をしてくれた。それに鈴音の方も入店直後に2人と分かれる私を特に疑問視することはなかった。もちろんだが、私も余程のことがない限りは背景に佇むモブ役に徹するつもりだ。
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コトン、と鈴音の前のテーブルに、キャラメルクリームとクッキー生地が何層にも互いに重なり合った丸いケーキがやってくる。モスグリーンのエプロンをつけた店員は続けてドリンクのアイスコーヒーを置き、「ごゆっくりどうぞ〜」と微笑んだ。
「ありがとうございます……! 美味しそう……!」
鈴音は去りゆく店員に軽く会釈をすると、目の前に置かれた「キャラメルクッキー」に目を輝かせた。決して大振りではないがその分、味も見栄えもしっかりと作り込まれたケーキだ。綺麗な縞模様に彩られた上にはこんもりと、ドーム状にキャラメルアイスが盛られている。
「溶けないうちに、お先にどうぞ」
そう言ってすぐ、鈴呼のもとへも「フローズンピーチ」が届けられた。タルト生地にひんやりとした果肉が合わさったケーキを見ながら、鈴呼は目を輝かせていた。
「ご予約いただいたお品物は以上でお揃いでしょうか?」
「はい!」
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もし仮に食べるのがこれだけだったら、それなりに短い時間で退店となってしまうだろう。だが、この鈴呼、先の道案内の時にオススメメニューについて語っていたのである。そしてどうやらいつも通りに、食べ終えたら常設メニューの方で追加注文をするつもりのようだ。それ故、私は「このまま行けば駆除も退店前に終わってくれそうだな」と安堵していた。
「やっぱりさ、あっちでなんかやってるんでしょ?」
「気のせいとかじゃないの?」
「気のせいじゃないよ! 私の野生の勘がそう言ってるんだもん」
サイトの通路にて。わたし 梅川晴香 は必死にエージェント・〼による追求を誤魔化そうとしていた。偶然通りかかって屑川さんに頼まれて、でもそれ以上に、強い口調からも漏れ出た声の震えに、普段から内心では焦り怯えながらも気丈に振る舞おうとしてしまう自分の姿を重ねてしまって。そうしてわたしは普段の柄にもなく、気付いたら助けに飛び込んでいた。しかし〼と呼ばれたパワフル娘は退くことなく、しきりに中央棟の方を覗き込もうとしている。これまでに何度か話を逸らそうとしたが意味はなかった。大抵「興味ないから」と言われて、話に発展する前に終わってしまうのだ。屑川さんが手を焼く理由がようやく分かった。このままだと、きっとバレてしまうだろう。
「野生の勘って……動物じゃないんだから」
「そう? まあ、そんなことよりさ。そっちの方に行きたいな」
「だから駄目だって何度も言ってるじゃないですか」
「なんで駄目なの? なんか見せたくないものでもあるの?」
一連の会話を通じて、わたしはこのまま誤魔化し続けることが無理だということを悟るに至った。わたしだって極端に弁が立つわけじゃないし、きっと、彼女は諦めない。最後には実力行使に出る可能性だってあるだろう。そうなったら被害は更に出ることになってしまう。となると、わたしが今するべきことは
少しだけパニックになりかけながら、でもそれで、1人で気丈に「大丈夫」を装ってしまうわたしの仮面が少し、剥がれた。
「屑川さん、ちょっと〼さんをお願いします」
「えっ? 梅川、ちょっと待っ……」
急いでその場から離れて、スマートフォンを取り出す。そして猿児に対して通話を掛けることにしたのだ。どうしようもならないなら、ヘルプを要請するのが最適解なのだと気付いた。
「猿児さん、やばいです!」
「梅川くん? どうしましたか?」
「えっと、えっと、それがですね……」
わたしは努めて冷静かつ正確に、エージェント・〼に隠し事がバレたこと、今は屑川さんが対応に当たっていること、蜂の巣の存在がバレるのも時間の問題であることを伝えた。それを聞いた猿児は「うむむむむ……」といった声を上げながら、何か考え事をしているようだった。
「どうしましょう。バレたら大騒ぎになりますし……」
わたしも唸りながら「どうするべきか」と考えていた。そんな中、脳内に1つの考えが浮かび上がった。
「そうだ、〼さんにサプライズプレゼントを用意してたことにしませんか」
「お! いいですね、それなら上手く誤魔化せそうだ!」
「なので猿児さん、E棟で何かプレゼントっぽいものを買ってきてくれませんか? 料金はあとでわたしが持つので!」
「了解です!」
そう言い、わたしは通話を切断した。そしてエージェント・〼のいる通路へと戻っていった。そこには相変わらず中央棟に向かおうとするエージェント・〼と、若干の混乱状態にある屑川さんがいた。わたしは屑川さんに事情を エージェント・〼にバレない形で 伝えることにした。
「屑川さん、マーブルを見てきてもらえますか?」
「マーブル……」
屑川さんは数秒思案した後にハッとした表情を浮かべた。そして「了解!」と言ってその場から駆け足で立ち去っていった。その様子を見ていたエージェント・〼は不思議そうな様子で私に話しかけてきた。
「なあ、梅川。マーブルってなんだ?」
「秘密です」
「教えてくれよ〜」
わたしが言ったのはマーブル模様の物体、つまりスズメバチの巣の事だ。でも彼女には伝わっていないようだった。ある種当然、事前に巣の存在を知っていなければ理解ができない言い方を選んだのだから。わたしは内心安堵しながら、エージェント・〼の相手をすることにした。
バン! と信じられない様な足音をたてて中央棟を駆け抜ける。普段なら絶対にやらないダッシュで、あたしは中庭の方に向かって必死に走っていた。体力不足のせいで肺が痛い。足も重いし、呼吸も少し変だ。それでも、あたしは走らなきゃならなかった。マーブル つまるところの蜂の巣 の様子を確かめて、猿児と梅川に伝える。それが今のあたしの役割だった。
しばらく走って、ようやく中庭についた。息を整えて、作業員に話しかけることにした。荒い呼吸音と、機械の駆動音が響いている。身体の内側では、どくどくと心臓が脈を打っていた。
「あの……蜂の巣の駆除って……今どんな感じですか……?」
「ああ、ちょうど今終わったとこだよ。どうかしたのかい?」
「いや……別に……」
安心を感じながら、あたしはその場にへたり込んでしまった。白い防護服の作業員達は仕事を終え、デカ目の掃除機みたいな機械を片付けている。その様子を見ながら少しだけ息を落ち着け、あたしはスマートフォンを取って猿児に電話をかけた。
「駆除、終わったみたい」
「料金はわたしが後で持つので!」
「了解です!」
そういって、梅川くんからの通話は切れた。「隠し事をしている」という事実はバラしつつ、隠していた内容をすり替えるのは悪くない作戦だ。流石は研究員だ、虫を前にパニクった状況でさえなければ策士になるのだな……!と思いつつ、運ばれてきたドリンクを飲んでいた。そうしていると、今度は屑川くんからの着信。何事かと、スマートフォンのスピーカーを耳に当てる。
「駆除、終わったみたい」
「お……!」
屑川くんからの息も絶え絶えな連絡は、最上級の朗報だった。
「承知しましたよ、グッドタイミングです!」
私、猿児は再び通話を切った。ふと双子の方を見ると、メンチカツサンド・ミニを2人で分け合って食べ終えたところのようだった。そうして席を立った双子のもとへ向かい、私はヘルプを飛ばした。
「E棟で、女の子が喜びそうなプレゼントのご教示を……!」
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エージェント・〼を引き連れながら、廊下をわたし 梅川晴香 は進んでいく。中央棟の真ん中を通る、つい先程まで大問題だった中庭の近くを通るルートだ。
理由は単純、その方が早くE棟との接続通路に到着するからだ。危険な虫の駆除も終わり、中庭には平和な雰囲気が漂っている。早朝とはまた違って見える、昼下がりの陽に照らされた色彩。赤レンガ風の装飾が施された壁をバックに植えられた1本のハナミズキ。そして石畳とのコントラストを彩る様に、青々と活きづく芝生が美しい。
心が落ち着いていくのを感じながらわたしは台車を押していた。
「プレゼント〜、プレゼント〜」
エージェント・〼は鼻歌交じりだ。わたしの左をスキップの様な足取りで進む彼女と、彼女越しに大窓から見える中庭とを眺めながら歩いていると、視界に入っていなかった右側から聞き慣れない声。
「結局バレちゃいましたかぁ、サプライズプレゼント」
びっくりして、反射的に振り返る。視界の下半分に映ったのは、鋭く光る左右の大きな複眼と、3つの単眼。そして長い触覚を備えたそれは、人の頭ほどもある巨大な虫の頭部。
わたしの体が反射的に飛び退いて、右足首の後ろに衝撃。心臓がヒュンとなる感覚の後わたしの中で、何か 緊張の糸のようなもの が音を立てて切れた感覚を覚えた。気がついたら床に倒れ込んでいた。後頭部が痛いし、頭の中がぐわんぐわんと揺れている。改めて状況を整理して分かったのは、「虫に対する怖さのあまりに姿勢を崩し倒れてしまった」ということだけだった。朦朧とした意識の中、わたしの目の前には蜂のような姿の女の子が、オロオロしながら立ち尽くしていた。虫じゃなくて、普通に職員で人だった。そして台車が倒れてる。わたしは飛び退いた時に足を引っ掛けて、そのままバランスを崩してこうなったのか。
そうしていると、聞き覚えのある声の男が「落ち着いて」という。
「猿児さん! どうすれば、えっと、突然倒れて……!」
「とりあえず、今から救護を呼びます。……もしもし? 梅川くんが倒れてまして」
猿児さんは、わたしがスズメバチと彼女を見間違えて狼狽、昏倒、転倒強打のコンボを決めたと思ったらしい。確かにほとんどその通りではある。わたしは虫が苦手だ。でも流石に大きさの時点で「これは虫ではない」と気付くべきだったのかもしれない。こんな様子を箕田博士が見たらなんて言うだろう。馬鹿みたいだと言うのかな。頭が痛くてぼわぼわとしているが故に、思考が上手くまとまらなかった。
いや、でも
ぽわぽわとしたままの思考の中で、屑川さんとのファーストコンタクトからの事を思い出す。最初は怖いと思ったけれど、じつは優しい人だったんだ。
だから、最初の印象に振り回されるのはきっと悪い癖だ
わたしが倒れたままでいると、先程わたしが中庭の偵察を頼んだ白衣の女性 屑川さん がわたしの傍まで、足音を殺したゆっくり歩きで近づいてきた。
「振動加えない方が良いよな? とりあえずおめーらもバタバタはするな」
「間違いないです。頼みましたよ、ドクター・屑川」
倒れたままのわたしの傍らで、私より前の中庭メンバーの2人 猿児さんと屑川さん はそろそろ歩きでしっかりと連携を果たしたのだった。プレゼントボックスを抱えた少女 鈴呼 はそれを唖然と黙って見つめ、エージェント・〼はというと彼女が抱えたままの包装をその場で破る。
バリッという紙の破ける音が聞こえる。
「お洒落な目薬?」
「え? いや香水」
「香水か! しかも2本も!!!」
自分に周囲にエージェント・〼は、両手でプシュプシュ香水を撒き散らす。別種類の匂いが混ざり、更に唖然とする鈴呼の顔に両手を構える……
次の瞬間、ガシッ、とその腕が強く掴まれる。さっきまでとはスイッチが切り替わったかのように一転、蜂姿の少女 鈴音 は鋭い声音で
「鈴呼に手を出したら承知しません。あとスズメバチは匂いに敏感なんです、牽制で止まって下さいね……?」
そっか、匂いに敏感なんだ覚えとこう…… またサイトに巣が作られるかもしれないし……
そんな事を考えながら、まだわたしの思考はグルグルしていた。
後にわたしが鈴音ちゃんと友達になったのはもう少し先、これとはまた別の話だ。
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