設定が怪しすぎる
靈代斎臺 | |||||||||||||||||||||||||||||
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御代希眞治 | |||||||||||||||||||||||||||||
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志背 | 某 | 喜八 | |||||||||||||||||||||||||||
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志和 | 司寧 | 陽華理 | 某 | 記内 | |||||||||||||||||||||||||
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志泰 | 司貞 | 將 | 美紗姫 | ||||||||||||||||||||||||||
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志斎 | |||||||||||||||||||||||||||||
靈代氏
靈代氏は、儺縣主(なのあがたぬし)の末裔を称する氏族の一つであり、筑前国席田郡大国郷付近を拠点に勢力を保った。史料には玉代などの表記も見られる。
元来は海代であったとの説もある。
儺縣主
金印で著名な委奴国王家の末裔とされ、後の那珂郡・ 糟屋郡・席田郡・早良郡等の広大な領域を領した1。大和王権の下での大陸との交流において重要な地位を占めるとともに糟屋官家などの管理も行ったとされる。三韓征伐において橿日宮が儺縣内に置かれた2際も、造営を主導したと伝わる。
地理的近接以外にも、海神、とりわけ(志賀海神社の)大綿津見神を祖神として祭祀していたとされることが儺縣主を再構築するうえで重要な材料となっている。彼らは安曇系の海人族であって、近隣に存在する住吉神社(那珂郡海部郷付近)や宗像大社(宗像郡)などの海神祭祀とその氏族との関連が疑われている。とりわけ前者は安曇系海人族の傍系とみられることがあり、大陸に出自を持つと見られている。後者は宗像系海人族であり、その出自には議論があるものの主に日本海側に広がった。
儺縣主後裔の諸氏は西日本の海岸沿いを中心に拡大し、その中心は大和政権が強勢を誇るとともに東方へ移っていった。
儺縣主の後裔を称する氏族には筑前国糟屋郡阿曇郷を本貫とした安曇氏、筑前国那珂郡海部郷を本貫とした海犬養氏、筑前国席田郡大国郷または宗像郡(のち糟屋郡)席内郷を本貫とした靈代氏などが存在する。
靈代連の成立
伝説によれば綿津見豊玉彦命(神武の母方祖父)を祖先とする。神武東征に際して当地を任されて残り、以降この地で大和朝廷の忠臣として儺縣で(主に大陸との交渉において)力を保った。但しこれについては後代に権威付けを目的として造作された可能性が高い。実際には海人族の中でも傍系の出であって、当地に土着し続けたものの中で辛うじて命脈を繋げたのが同氏であると考えられている。
筑前国風土記に景行天皇期の人物として「綿津海珠志呂連志賀海」という人物が見える3のが系図等を除くと最初の記述である。その後三韓征伐や磐井の乱、朝鮮半島との交流記録等においても海代、海珠代、靈代等の名が希に見られる。
古代靈代氏
本貫地については筑前国席田郡大国郷説と宗像郡(のち糟屋郡)席内郷の二説が有力だが、いずれにせよ糟屋地域を中心とする筑前国中北部の沿岸部から古代官道周辺のどこかを本拠としていたものとみられる。
継体朝下の靈代氏は従来の海部との関係に加え物部氏などとの関係史料は示唆している。その物部氏が没落したのちは勢力を落としつつも、厩戸王に接近したとみられる。ただしこの時期までの靈代氏については矛盾も多く、仮託であるか事実であったとしても相当の誇張・造作を含むものと考えられている。
蘇我本家滅亡後は中大兄王(天智天皇)らに恭順し、海魂代蘇邇(そに)が白村江の戦いで死亡している。しかし靈代氏は中大兄王よりもむしろ大海人王に近しかったようであり、同じ綿津海神を祖とし養育に関わった凡海宿禰や、大海第一王子であった高市皇子の母方の実家である宗像郡の胸形君を通じて交流があったことが伺える。
また当時筑紫帥であった栗隈王とも関わりがあり、「靈代古拾伝」には壬申の乱に際して靈代連日足(ひあし)が栗隈王の子三野王に大陸の情勢が緊迫しており今筑紫を離れてはいつ禍が訪れるとも分からないとして大友王への援軍を行わないよう説得したことが記されている。
少なくとも靈代氏が地位を確立したのは壬申の乱以降の天武朝下であるとみられ、7世紀後半から8世紀初頭にかけての筑紫大宰府に関する諸制度成立の過程で重きを為すようになっていった。その結果靈代氏は大宰大監(正六位下)などを務めることとなった。
蒐集院における靈代氏
大宰府における地位獲得の一方で、白村江以降に整備された風水結界との関わりや伝統的な祭祀の文脈から所謂超常との関わりも深く、聚斎部との接続があった。聚斎部が天武・持統朝下で発展した聚集寮の制度へと組み込まれ、大宰府及び西海道の呪術方面を担う筑紫斎司に勢力を伸ばすこととなった。
筑紫別院は大宰府同様、中央すなわち本院からは一定の距離を置きつつも重要拠点としてあり続けた。律令制の形骸化・衰退に伴って大宰府での官職が意味を持たなくなった後も靈代氏は聚集寮筑紫斎司/大宰府斎司あらため蒐集院筑紫別院において(分裂・断絶などを繰り返しながらも)有数の氏族として存続した。
これは1000年以上続き、オノゴロ協定などに基づく蒐集院資産のSCP財団への吸収によって筑紫別院も財団管理下となるまで存続した。財団への吸収後も靈代氏は財団(とりわけ81管区05ブロック)の中において一定の地位を占めている。
高神威領域としての大宰府に於いて
筑紫別院のあった地域は古くから多くの寺社が存在した。これが筑紫別院・大宰府の価値を高め、同所の独自性と自立を称揚することとなった
靈代氏の特性
靈代氏は数多くの史資料を有するが、独自の風習も有していた。その一つが刺青である。元来は呪術的目的などから目の周囲等全身に刺青を行っており、この風習は靈代本家に残る。時代が下るにつれ諸分家を中心に大規模な刺青の風習はすたれたが、依然として身体の一部に刺青を入れる風習は多くの家に残っている。刻まれる刺青にも特徴があり、最も多く見られるのは「靈代三つ目」と「三つ巴」である。
また幼少期の子を異なる性の装束で育てる風習も見られる。これは陰陽双方の気を保つことで巡りを良くし健康の維持を願うものであるとか、記紀の「うけい」に見えるような性的相違による伝承と関連が見られるとか言われているものの、未だ明らかになっていない。家伝によっても由来にかなりの相違があることも考察を難しくする一因となっている。
御代家
御代家は20世紀初頭に成立した家であり、靈代氏に繋がる。初代御代斎臺(靈代斎臺)は元々山城靈代家の分家である元北殿家(熊野家)の生まれであった。元北殿家蒐集院の奉斎・衛士を務める家であり七哲の守護などに当たっていた。しかし臥龍事件によって一族郎党が壊滅し、今だ嬰児であった斎臺は孤児となった。これを養育したのがMSR氏である。MSRと靈代本家らによる協議の結果斎臺は御代家としての独立を認められた。その後は財団に帰属し、今日なお続いている。
家紋
靈代三つ目と称される紋を基調としたものが多い。これは上・左・右に配置した隅立て目結に小さな隅立て石を配置したものである。
家紋規則に則らない家紋が多数あるが詳細は不明。呪術的意味合いが強いと推定されている。
以下に示す。
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靈代氏家紋 (靈代三つ目)
山城靈代氏家紋
熊野靈代氏(聖護院家)家紋
御代家家紋
御代家喜八流家紋