競馬史
競馬法成立まで
馬による競走自体は古代から行われていた(古式競馬、競馬(くらべうま))が、西洋式の近代競馬が導入されたのは江戸時代末の「開国」以降のことである。慶應2(1866)年には江戸幕府の資金によって根岸競馬場が建設され、横濱レース倶楽部により運営された。当初は西欧人限定のコミュニティであったが、明治13(1880)年には日本レース・クラブとなって日本人の加盟を容認した(伊藤博文などが入会)。同年に根岸競馬場で実施された「The Mikado's Vase」は、帝室御賞典の起源とされている。
日清・日露戦争後、日本政府は優れた軍馬を必要とし、馬匹改良政策上有用であるとして注目されたのが競馬であった。馬券発売は賭博が違法であることと矛盾したが、政府はこれを黙認する方針を取った。馬券黙許時代には東京競馬会を始めとする公認競馬が最終的に15団体も成立したが、これは競馬自体の風紀悪化を齎して競馬排斥・馬券禁止の風土が生じる。
馬券発売に関する逮捕事件を切欠に政府は方針を転換し、明治41(1908)年10月馬券発行の禁止を発表。競馬規程を設定して、競馬の施行者を再編した11の競馬倶楽部1へ限定2し、馬券禁止により損なわれた運営資金は補助金を支給することで賄おうとした。
しかしながら馬券禁止下での競馬は人気がなく、景品競馬のような代替策も講じられたが不足を十分補うことが出来なかった。馬券については「風教上の障碍」などとして貴族院を中心に反対するものが多かったが、運営費を賄う為の補助金が財政負担となっていたこと、陸軍が馬匹改良をより促進すべき旨主張したことなどから、数度の却下の後漸くこれを緩和する方針となった。刑法の規制対象3とならずに(富籤型の)馬券発売を行うには特別法の制定が必要であり、その結果成立したのが『競馬法』である。
競馬法とその改正
大正12(1923)年、競馬法4が成立し、全国11の競馬倶楽部5は帝国競馬協会の下で協力体制をとることとなる。これに伴って馬券6の発売が解禁されたが、一枚五圓~二十圓で一人一枚、払い戻しは十倍迄と言ったように強い制限がかけられていた。しかしながら馬券は予想以上の売れ行きを見せる。大正14年には震災復興祈念競馬が開催され、その収益が一昨年9月に発生した関東大震災の復興に於いても活用されることとなる。
馬券収入が社会福祉上の財源としての地位を確立したのは、救護法の成立7に於いてであった。震災による民の困窮を受けてその生活を国家が保護すべきであるとの思想がより一層強まることになるが、競馬事業の収入がその恒久的財源として注目されたのである。上の震災復興祈念競馬の成功から、或いは西欧諸国において競馬事業の収益が社会福祉事業の資本とされていることを典として、競馬法の改正が試みられた。貴族院などからは風教上の懸念などから反対意見も生じたが、競馬法の制定や改正時には難色を示していた司法省も今度は賛成に回り、競馬法の改正が実現した。これに際して控除率の引き上げが為されたが、その代わりとして競馬施行日数の緩和や、複勝式勝馬投票券の発売認可8が行われた[1]。
日本競馬会の成立
虎ノ門事件を切欠に成立した天皇機関は恩恵も莫大であったが、その設置や維持には多額の資金が必要となった。この財源としても競馬事業収益は利用されるようになる9。
この競馬の活性化や注目拡大の過程で、より効率的かつ一貫した競馬運営の確立が必要とされたことが、競馬法の大規模改正法と日本競馬会の成立に繋がった。
大正25(1936)年、競馬法が改正され帝国競馬協会・競馬倶楽部は日本競馬会10に統合された。この時売得金から15%が控除され、その8%を国庫へ残りの7%を競馬会へ分配した上で払戻金を決定することとなった。一方で払戻金額は最大20倍にまで拡大された。
日本競馬会は西洋の体系を参考に競走体系の整備を行い、様々な特別競走を設置した。大日本優駿競走を始めとするクラシック競走などがその好例である。また大正20年代末以降競馬を扱った小説・映画が人気を博したことを切欠に、競馬観戦は大衆化しはじめた。その結果風教も次第に改善されていったが、一方で欧州的社交競馬と米国的大衆競馬を折衷したような、ある種アジア的競馬風景が形成されていくこととなる。即ち、新興資産家などの富裕市民層が屡々馬主となり、一方で競馬場へ一般市民(家族を含む)が馬を見に訪れ、帝室御賞典や日本優駿競走のような特別競走を勝利することは名誉あることであると広く認知されるという競馬観が形成されていく。
根岸競馬場から相模原競馬場へ[2]
1859年の横濱開港と共に西洋馬事文化がもたらされ、この地へ居住する西洋人によって競馬も盛んに行われた。その後生麦事件発生後の折衝の中で、列強公使と幕府は横濱南方の根岸台地へ新たに競馬場を作ることで合意した。これが根岸競馬場である。
ここでは横濱レース倶楽部という外国人によって運営されていた競馬倶楽部によって競馬が開催されていたが、明治維新後日本人の参加が可能となり、「日本レース倶楽部」として再結成された。
日本における西洋馬事文化の先導者として根岸競馬場・日本レース倶楽部として競馬界を牽引していった。帝室御賞典の先駆たる「The Mikado's Vase」が行われたのもここであった。
大正12年には公認競馬が開始されて馬券発売が可能となり、また関東大震災によって被害を受けた。この年日本レース俱楽部の理事長となったS・アイザックスは大スタンドの建設を計画する。この現代的な開放スタンドは5年と55億円を費やした末大正23年に完成した。競馬場が根岸台地の縁に位置することもあってスタンドからは根岸湾-東京湾と三浦半島が眺望できたが、この立地が横濱競馬場の運命を左右することとなる。日本競馬会が成立すると日本レース俱楽部は吸収される形で解散し、S・アイザックスは同会の理事となって、根岸競馬場の管理もこの法人へ移譲された。
先に述べた通り根岸競馬場は横濱の南方、海に面する高台にあったから、東京湾南部がよく見えた。それはすなわち、日本最古にして東日本唯一の鎮守府たる横須賀鎮守府の様子がよく観察できることを意味した。大日本帝国海軍はこのことに気を配り、農林省に対し防諜・作戦上の要地として移譲するよう要請した。海軍省・農林省・日本競馬会による協議の末、根岸競馬場は海軍省が買収し、北西20km余りの所にある高座郡相模原町の大野で用地確保を行いここへ新たに競馬場を建設することと決まった。これによって誕生したのが、相模原競馬場である。
おりしも相模原は陸軍主導で軍都相模原を形成する相模原都市建設区画整理事業が行われていた。競馬の目的は馬匹改良であり、それは偵察や輜重に用いられるより優れた軍馬を生産するためであったから、相模原への競馬場移設は軍都整備計画の一環であったととることもできる。新競馬場のすぐ近傍には陸軍通信学校が数年前に移設されたばかりでもあった。
東亜競馬連盟と国際競馬
アジア的競馬観は大日本帝国内だけでなく、東アジア一帯へ拡大を見せる。日本領あるいはその統治領となっていた樺太や台湾、朝鮮、関東州などでもこの競馬観が流布していった。そもそも競馬の本場は西洋ではあったが、東洋でもこの時期競馬は盛んに行われていた。日本領外でも奉天には巨大な競馬場が存在し、香港や上海、天津、シンガポール、マレー、インド、オーストラリアなどでは競馬の本場仏印大英帝国の影響による競馬が行われていた。仏印でも大正20年代ごろに幾つか競馬場が開場していたし、フィリピンではスペイン領時代から競馬が行われていた。独立国であるタイもまた、日本と同様に競馬を導入していた。
欧州では世界大戦以前から国家をまたいだ競走が行われていたが、東洋においてもこの国際競走に対する関心の高まったのは自然の帰結であった。大正30(1941)年に日本競馬会が中心となって樺太競馬会、朝鮮競馬倶楽部、台湾競馬会、奉天塞馬場、哈爾賓国際塞馬場、関東競馬会など日本競馬会関係の深い競馬団体の代表者が東京に集結して会議を行い、東亜競馬協力会が設立される。タイや中華民国内の競馬団体も参加して大正39(1950)年にはこれが発展する形で東亜競馬連盟11となった。以降東亜競馬会議12を開催し、各国間の協力に当たっている。
またこれに先行する形で、先ず競馬の祖国たる大英帝国と大正34(1945)年に国際協定を結び、アメリカ合衆国やフランス共和国、独逸連邦、露西亜連邦、大多悩合衆国などとも同様の協定を結んでいった。ここで良好な関係を結んだことは、先の東亜競馬会議へ西欧列強の植民地国家が加入する糸口となり、ひいては国際競馬統括機構13の成立に繋がった。
王のスポーツから民衆のスポーツへ
競馬の大衆化に於いて最大の功績を果たしたのが、二冠馬████であった。大正3█年に生まれたこの競走馬はレコードと共に連勝をかさね、その馬主が興行界の巨人であったこともあり、注目を集めた。同馬は横浜農林省賞典四歳を再びレコードで圧勝してみせ、ダービーへ臨んだ。最多記録を更新する8万もの観衆が見守る中、圧倒的人気に応えるレコード圧勝によって2冠馬に輝いた。然し数日後に突如体調を崩し、蹄葉炎と破傷風によって死去した。
同馬を忍ぶ映画作品が作られたほか、競走や銅像も制作された。
制度改革
大正30年代に入ると、電気機械産業で急成長を遂げた東海地域でも競馬場を誘致する動きが生じた。大規模なロビー活動の結果法改正によって競馬場数の上限が緩和されることとなり、大正39(1954)年に中京競馬場が開場した。
また大正43(1954)年までに少しずつ競馬法全体の抜本的改革が行われ、現行法の基礎を為した。例えば国庫納付金の割合はこの時制定された条項から変化していない。馬券の緩和が行われたのもこの時である。法改正に際して作られた新たな競馬施行規則等の制度もまた、現代競馬の基礎となった。このころから三歳戦も行われるようになったし、現代に比べれば少ないとはいえ短距離競走も整備され始めた。
これには幾つかの要因は第一に機械技術の進歩によって軍馬需要が減退を見せ始めたこと、第二に競馬が大衆人気のあるスポーツとなって社会に定着しはじめたこと、
これ以降、中央競馬の開催は以下の12箇所で行われることとなる。
- 札幌競馬場(北海道)
- 函館競馬場(北海道)
- 福島競馬場(福島県)
- 新潟競馬場(新潟県)
- 中山競馬場(千葉県)
- 東京競馬場(東京府)
- 相模原競馬場(神奈川県)
- 中京競馬場(愛知県)
- 京都競馬場(京都府)
- 阪神競馬場(兵庫県)
- 小倉競馬場(福岡県)
- 宮崎競馬場(宮崎県)
これらのうち、中山・東京・横浜が関東、中京・京都・阪神が関西の一大拠点となった。
大正60年ごろには欧米と共にグループ制を導入。
朝鮮馬事協会、台湾競馬協会、樺太競馬協会などと縁が深い。
ロシア帝国などと哈爾賓競馬場を共同管理
1923(大正12)年7月1日 競馬法施行。条件付きで馬券発売が可能に。
・開催は年2回、各回4日まで。
・五圓~20圓の勝馬投票券(1人1枚)、払い戻しは10倍まで
控除率は1%
競馬法人は当分11以内
折からの不況に加え、関東大震災や大正天皇狙撃事件(虎ノ門事件)により、復興費用や天皇機関形成・維持費用が必要となる。その一環として馬券購入を緩和しようという考えが強まり、次第に馬券発売についても緩和が行われた。
大日本帝国内の東亜競馬協同会議が開催され、東亜競馬協会
樺太競馬会
朝鮮競馬倶楽部
奉天競馬場
ハルビン国際競馬場
関東競馬会
天津
上海
香港
大正25(1936)年8月に誕生した秩父宮敏仁(はやひと)親王14は、競馬の後援者であった。