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 政府はいよいよ競馬法改正によりて救護法実施に要する経費を捻出し、差当り六年度においては、百万円見当を以て実施の方針に決したということである。競馬法改正による財源捻出については議論があるにもせよ、救護法の実施については、もとより議論のあるべき筈がない。思えば、一昨年三月、時の政府が『現下社会の実情より見て最喫緊の要務なり』として提案し、貴衆両院またこれを認めて九日間に通過成立せしめた救護法が足掛三年も棚ざらしになっているということは既に不可思議な事柄であり、仮にその実施に関して政国両党から決議案を突きつけられる心配がないとしても、政府としては極力その実施に努めるのが当然過ぎることなのである。
 救護法の実施に関連して考えられることは、同法が貴衆両院に上程された当時から、最近まで続いた社会事業関係者の運動である。実をいえば、我等はその運動の経過について、時折世間に伝えられた以上に知る所がない。またそれが実際どれだけ政治機関を動かし、どれだけ問題の解決に効果があったかということも知らないのである。しかしながら、兎に角この出来事を通じて、社会事業現在の行づまりと将来の発展とについて考え得られぬことはない。若し現在の社会事業が行きづまって居ないとすれば、十余万を数うる老幼救護のために、社会事業関係者が共同団結し、政治圏内に進出して、足掛三年運動を試みる筈もないのである。
 元来、我国の社会事業は自由放任主義によって発達したものである。従って、公私、新旧、多種多様の経営雑然として統制を欠き、その分布状態においても、地域的に偏きし、内容的に重複し、その結果彼此排撃し、かい離して、経営難に陥っているものも少くない。殊に昨今の如く、底なしの不景気が、日毎に失業者、困窮者の大群を街頭に投げ出しつつある時においては、いずれの社会事業家も、徒らに自己の無力を嘆くのみで、実際如何ともすること能わず、事業家そのものが行づまりとなることを免れないのである。しかして、この行づまり打開の一つの手段として、社会事業関係者が団体的に政治機関と交渉を続けたということは、その意図する処、たとい救護法の実施に止ったとしても、社会事業の発達過程から見て注目すべきことであり、単に救護法だけの問題でないことを考えさせる
 世界大戦後、我国の社会事業が急激に拡張され、複雑化されたことはいうまでもない。しかして、これと同時に、政治の上に重要さを有って来たこともまた明かである。社会の欠陥が産み出した不幸に対する責任を、いわゆる慈善家が引受けた時代とは違い、現代においては、社会事業と政治との交渉は自から緊密とならざるを得ない。勿論、眼前の事実としては、救世軍の慈善鍋が社会鍋と変っても、一時的施与たることにおいて何の変りもないように、慈善事業が救済事業と変り、社会事業と変っても、何の変りもない形態において事業経営に当って居るものが相当多いことは否めない。しかしながら、それ等の社会事業家は別とし、社会事業の本質とての進歩発達の過程とは潜心するものに取っては、自から政治との交渉を軽視する訳に行かないのである。
 現代の社会事業中には、直接政治と関係交渉を有ち、または有つべきものが相当に多い。救護法は勿論のこと、職業紹介所法、公益質屋法、結核予防法、不良住宅地区改良法の如き法律が漸次制定されたことを見ても、それは明瞭な事柄である。思うに、これ等の法律が、それぞれその事業の発達を促し、または促すべきことは疑いをいれない所であり、同時に、未だ法律的基礎を有って居ない重要事業に対して、法律的基礎を有たしめる必要あることも多弁を要しない。しかして、それは社会事業の政治圏内進出によって可能性を有つものであるとすれば、社会事業家はその事業の発達進歩のために、進出の方法について更に考究すべきであるまいか。救護法の実施決定を機として一言する次第である。

神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 救済および公益事業(4-093)
報知新聞 1931.2.25 (昭和6)

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