米津氏

米津氏

米津(よねきつ)氏は三河国碧海郡米津を本貫とする氏族である.

米津氏の出自と富士氏

系図上米津氏は藤原北家道隆流(伊周流)とされるが,実際には駿河国一宮である浅間大社の大宮司家,富士氏の分流であると考えられている.

富士氏は本姓を和邇部氏と言い,駿河国や富士郡の官吏となっていたが,のち浅間大社の祭祀を司るようになった.中世に富士氏を称し,自衛の為武装して武家となり室町・戦国期には国人として富士郡を中心に勢力を保った.しかし戦国末期には神職としての性質を強め,江戸幕府下では富士山及び浅間大社を司る大宮司として定着した.

駿府・駿河の重要性もあって重要な地位にあったが,四十四代富士重本は駿州赤心隊を組織して維新軍の東征に倣った.維新政府内でも官となったが,大宮司は官選となって富士氏はその地位を離れることとなった.代わって富士重本は麴町区長などを務め,その死後家督を継いだ養子の富士高茂(讃岐多度津藩主の京極家出身)は富士氏の資料を東京帝国大学史料編纂所や大日本帝国異常事例調査局へ提供した.

譜代・米津氏

米津氏は古くから隣の額田郡を拠点とした松平氏に仕え,徳川十六神将の一人である米津常春などがいる.その子米津正勝は大久保長安事件の影響もあって処刑されたためこの流れは断絶したが,常春の弟政信の流れが存続した.

米津政信は三方ヶ原の戦いにおいて戦死したもののその四男田政は徳川家康の小姓として仕え,徳川家康から家光までの3代に渡って北町奉行を務めた功臣であった.その子田盛が大坂定番となり加増を受けたことにより米津氏は大名となり,また彼は米津氏の菩提寺米津寺を開基した.田盛の子政武は寺社奉行となった人物であるが,彼のとき藩庁は武蔵九喜へ移る.以降徳川綱吉の小姓で大阪定番となった政容(久喜藩3代藩主)などを輩出する.その孫米津通政のとき陣地を出羽長瀞に移し,以降幕末まで長瀞藩となった.

藩領が近く同じく譜代であった庄内藩酒井氏との縁も近く,庄内藩8代藩主酒井忠器の子政易・政明の兄弟を継嗣として迎えている.

政明の子政敏は慶応元(1865)年に数え15歳で家督を継承した.彼は庄内藩との縁もあって戊辰戦争においては同藩に味方した.廃藩置県の後は陸軍に入って近衛師団などで職を全うし,退役後は梨本宮家の家令を務めた.明治23(1990)年これを辞し,互選によって貴族院子爵議員となって明治28(1995)年に死去するまでその座にあった.

政明と関東老中首座を務めた堀田正睦の娘(千勢)の間の子政賢は13歳で家督を継承したが,学習院・六高を経て東京帝国大学農科大学を卒業し農商務省・農林省の職を歴任した.また大正4(1915)年に貴族院子爵議員に当選し,以後昭和(1941)年に死去するまでこれを務めていた.その跡は新庄藩主であった戸沢正実の娘との子,政福が継承し戦後まで続いた.

また米津政敏の弟忠利は庄内藩9代藩主酒井忠発の養子となり,海兵士官学校に入って最終的に海軍少将まで上がった.娘婿に板倉勝定や西尾寿造がいる.

異常事例調査局と米津元政

米津政明の三男元政1(c. 1860~)は草創期の大日本異常事例調査局に入った。

元政は蜂須賀隆芳の孫で蜂須賀韶隆2の娘である小松3と婚姻した。元政の結婚時には既に離縁していたものの侯爵蜂須賀茂韶の初妻は隆芳の娘であったので、両者の間には薄い縁戚関係がある。

両者の間に生まれたのが、米津元帥(もとかず)である。

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