子供ができた。
愛しい人のお腹が膨らみ、そこに命が宿っている。そんなことを、漠然と実感していた。俺は彼女ではない。だから彼女の痛みや辛さを知ることが出来ない。それでも、だからこそ。俺は俺なりに、彼女を支えていこうと思った。
いつか来る誕生の瞬間への期待と不安を抱えながら、今のように仕事に打ち込む日々を過ごしている。これから大きく生活が変わるのだろう。少なくとも、俺と彼女の呼び名が父と母に変わるくらいには、大きく。
そんな中で、俺は自分の生き方を考えあぐねていた。俺が彼女と産まれてくる我が子に対して何ができるか、ずっと考えていた。育児雑誌を読んでみたり、名前の付け方を調べたり。まだ分からないことだらけだけれど、少しでも彼女と我が子には不自由な思いはして欲しくないから。
その一心で仕事をこなしていた。
「お前んとこ、子供生まれるんだろ?」
「そっすね。来月の予定です」
「続けんのか? 財団」
サイト内カフェテリアの一角、そこを出てすぐの休憩室内。起動されていないテレビと、冷風を出す空調と、壁掛け時計。それから、端の方に備え付けられている二台の自動販売機。
俺と先輩は、それらに囲まれた中で話をしている。
「いや……辞めようと思ってます。子供には悪い思いさせたくないし、家内も忙しくなるんでサポート必要ですし。それに──」
「それに?」
「いくら平和な世界って言ったって、いつ死んでもおかしくない環境です。俺が死んだら、誰が家族を守るんですか」
自動販売機近くの横長椅子に座りながら答える。手元には封の切られた缶コーヒー。単調で単純な苦味の残るそれを揺らし、未だに揺れ動いている覚悟を隠した。
「そうか。やっぱりそれが一番だ。少なくとも、俺はそう思う」
「ありがとうございます」
「退職金はそれなりに多く出る。出産祝いだと思って少しはゆっくり過ごすといい」
「……そうさせていただきます」
屈託のない、まるで善意の塊のように見える先輩エージェントの光に当てられ、自分の心に影がさす。思わず、俯いてしまった。
「……なんだ、やけに辛気臭いな」
「いえ……」
「せっかくの晴れの舞台なんだ。もっと堂々としてりゃいい」
「あはは……それもそうですね」
「えっ、先輩辞めるんですか!?」
「あんま大きな声で言わないで……」
オフィスに戻ったところ、後輩から話しかけられた。どこでその話を知ったのだろう。まさか、先輩が漏らすわけもあるまい。
「すいません、たまたま休憩室の前を通りかかった時に聞いちゃって……。わざとじゃないんですよ!? たまたま、本当にたまたまなんです!」
あたふたとする後輩を見て、少し微笑む。
思い返せば、財団に所属してから十年も経つ。最初こそ強い信念を抱いていた。世界を平和にする。異常を社会から隔絶し、閉じ込め、平穏を作る。そう意気込んでいたけど、実際はそんなことはなかった。世の中は裏側含めてとにかく平和だ。見かける異常はSafeかAnomalous。本当にたまにEuclidが出るくらい。
この世の中は平和で、穏やかで、思ったよりも怖くない。
それでも異常が存在することに変わりはない。日夜問わず、数多くの一般人のために奔走した。こうすることで家族を、恋人を異常から遠ざけられている気がしていた。記憶処理もカバーストーリーの流布も、何度したか覚えていない。始めたての頃は数えていたが、いつの間にか面倒になって数えなくなっていた。
もう、今では何のために信念を持ち、何を守っているのか分からない。
仕事に対する熱が、思いが、急速に冷めていく。
「先輩」
「なんだ」
「この世で一番大事なものって、何かわかります?」
後輩は俺に背を向けて問いを投げかけた。表情は分からない。でも、どこか寂しそうな声をしていた。
「異常を社会から引き離すこと、だろ」
「ぶっぶ〜、違います〜!」
「じゃあなんなんだ?」
少しだけ振り向いた部下は、言い聞かせるような口調で言った。
「自分自身と、最も守りたい人ですよ」
守りたい人。俺の場合は誰だろう。家族は大切だ。友人も、同僚も。それでも、それ以上に大切な人。それら全てを見殺しにしたとしても絶対に守り抜くべき人。
「守れなかった、なんてことがないように。しっかり向き合っておくんですよ」
その言葉が身体に染み渡って、心に滲んだ。俺は彼女と我が子を守り抜く。例え死んでも、何かを犠牲にしても。この二人だけは、絶対に死なせない。守り切らなければならない。
ふと、後輩の顔が見えた。柔和な表情で、頬笑みを浮かべていた。それでもどこか悲しさのような儚さのような、そんな繊細な感情を想起させる雰囲気を纏っていた。
「先輩、おなか空きました! ご飯食べいきましょ!」
「いいけど奢らないよ」
「えー、ケチー」
オフィスを後にして、食堂に向かっていく。この廊下を歩くのも、今月で最後だ。コツコツという足音が、やけに耳の中で響いていた。
モヤが、少しずつ晴れていく。
辞表の入った封筒を持ち、人事部の受付窓口を訪れる。受付から渡された番号札を持ってソファに座る。心臓の鼓動はずっと速いままだ。
「13番の方」
番号が呼ばれる。ソファから立ち上がり、受付窓口へと向かった。
「本日はどのようなご要件でしょうか」
対面に座った女性が問いかけてきた。懐から封筒を取り出し、それを窓口のテーブルの上に置いた。女性が封筒を手に取り、続いて中から辞表を取り出す。そしてそれを広げ、紙面を目でなぞっていく。
ああ、もう少し綺麗な字で書けばよかったなとか、こんなんで退職できるのか、なんて考えが頭に募る。
しばらくして、それを読み終えた女性は、ゆっくりと顔を上げて口を開いた。
「事情は把握しました。後ほど正式な手続きをするので、今はこちらの書類にサインをお願いします」
そうして、一枚の書類が目の前に置かれる。本当に退職していいのかを確かめるための書類。添えられたペンを取り、筆記欄に文字を書こうとした。したのだが──
「どうかしましたか?」
手が震えて動かない。心臓がどくんどくんと早鐘を打っている。覚悟したつもりでも、できていなかったというのか。辞めることに対して、まだ躊躇いがあるのか。俺は結局、愛する人よりも、仕事を優先しようとしているのか。違う、そんなはずはない。
世の中で一番大切なのは、自分と、自分が守りたいと思う人達。
でも──
「迷いがあるのですね」
「……はい」
「気持ちはわかります。これまでの生活を、仕事を投げ捨て、新たな人生を始める。それはとても不安なことで、辛さで押しつぶされてしまいそうになることです」
女性職員はペンを持つ俺の手を握った。
「矢場さんのことですから、自分が居なくなったことで仕事に穴が空くのではとか、後輩はどうなるのかとか、そういったことを考えているのだと思います。単刀直入に言わせていただきますと、大丈夫です」
「本当に、大丈夫なんですか」
「はい。ここは財団です。矢場さんくらいの人でしたら変わりはいくらでもいます。あなたが空けた穴は、きっと二、三日もしないうちに埋まってるはずです」
普段なら傷つくであろう言葉も、今となっては嬉しかった。
「もう矢場さんは一般人になるんですから」
そっか、自分はもう背負わなくていいんだ。一般人として、普通に好きな人達と生きられるんだ。世界がどうとか関係ない。財団も異常も関係ない。ただの一般人として。
「だから、気負わず行ってらっしゃい」
あの後、少し泣いてサインを書いた。書類は滲んでいたが、受付の人はなんてことなくそれを受理してくれた。
その後に何枚も書類を書き、検査を受け、退職後の生活の説明を受けた。記憶処理は受けなくても良いらしかったが、その代わりに少しばかり監視がつくという。恐らくは先輩の根回しだろう。最後まで、彼には世話になりっぱなしだった。
「あ、やっときた」
「すいません。少し準備に時間かかっちゃって」
サイトの正面入口。目の前には黒色の大型車が停まっている。ペットボトルに入った飲みかけのコーヒー飲料を持ちながら待つ先輩に軽く会釈し、車に乗り込む。
「全く……そんなんで本当に家族守れんのか?」
「大丈夫ですよ……。じゃ、行きましょうか」
「そうだな」
先輩がアクセルを踏む。車は発進し、道路の上を駆けていく。ふっと空を見上げると、そこには雲一つない青空が広がっていた。
新たな生活への希望を抱きながら、車は前へ前へと進んでいく。
追放鯖ジャムコンテストに参加します。主人公は責任から解放されています。
アイデアを提供してくれたYukkoさんに感謝します。ありがとうございました。









