ありえないくらいに噴出する血しぶき、耳をつんざくような甲高い悲鳴、グロテスクな見た目をしたモンスター。これでもかと詰め込まれた恐怖要素が画面に映し出される。とはいえ、これらが怖いとは思わない。よく見ればモンスターの造形は粗いし、恐怖演出だってチープなものばかりだ。
「うわぁ、気持ち悪いですね」
「そうですか? そこまで怖いとは思いませんけど」
「そんなことないですよ。ほら、このモンスターとか……」
俺は何故、ホラー映画を見ているのだろう。こうなったきっかけは数時間前に遡る。
◇ ◇ ◇
俺の役職はアルバイターだ。特定の職を持たず、財団内にて都度雇用され、その部門に応じた仕事をこなすだけの人員。その日も、いつもと同じように仕事の依頼が舞い込んで来ていた。
オフィスにやってきた長身の男が俺に声をかける。こいつはこの部署の人間ではない。つまり、依頼者である。アルバイターである俺を雇用するためにオフィスを訪れたのだろう。馬鹿馬鹿しい。雇用依頼なら申請書を書くだけで十分だというのに、わざわざやってくるとは。
「なんですかって……分かっているでしょう」
「……なんの仕事ですか」
箕田は腕を組みながら俺の前に立った。無駄に背が高い。遠くから見てもそれは分かるのに、目の前に立たれたせいで強調されたように思う。思わせぶりな態度をとっている彼を睨みつける。箕田は口角を僅かに上げながら言った。
「夜間巡回です」
「巡回? それなら一人でもできるんじゃないですか」
「巡回と言ってもずっとサイトの中を回ってるわけじゃないんですよ。決められた時間になるまでは待機ですから」
要は待機中の暇つぶし相手になれということだろう。俺をなんだと思ってやがる。
とはいえ、雇用依頼であることに変わりはない。俺に拒否権はなく、従うしかない。
「……分かりました。で、いつから雇用開始ですか?」
「今日の午後9時くらいからですかね」
「はあ、今日ですか」
当日に依頼してくるな。俺にだって予定があるんだ。幸いにも今日の夜は空いていたが、いつもこうというわけではない。余裕をもって依頼しろ。内心愚痴を吐きながら、箕田を見つめる。
「もしかして、何か予定でもありましたか?」
「いえ、特には。では、午後からよろしくお願いします」
会話を切り上げた。長々と話していても辛くなるだけだ。箕田は俗に言うエリートだ。職務遂行能力は高く、周りからの信頼も厚い。だがしかし、エリートだからこそ周りに対しても「できて当然」のような態度で接している。要は自分勝手なのだ。自分はできるから、自分なら大丈夫だから。そういう傲慢な気持ちが滲み出て居るように感じた。俺はあまり好きじゃないタイプの人間だ。
「それでは用事も済んだので失礼しますね」
箕田がオフィスを後にした。背が高いことに由来する圧迫感が消え、少しばかり気が楽になる。だがそれも一時的なものだろう。夜になれば彼との仕事が始まる。気まずいような、面倒臭いような気持ちを抱えながらため息をつく。
「だりぃな……」
時計を見る。午前11時34分。時間はまだあるように思えた。
◇ ◇ ◇
「……うわ、また血ですよ。嫌になりますね」
「嫌なら見なければいいんじゃないですか?」
「そういうわけにもいかないんですよ」
当直室で、俺と箕田はホラー映画を見ていた。時刻は午後9時47分。巡回まであと13分を切っていた。
ホラー映画を見ても特に面白い、怖いとは思えなかった。チープな演出、キャストの雑な演技、とってつけたような粗いCGグラフィック。どちらかと言うと一種の拷問のようだった。つまらない作品を無理して見せられることがどれほど辛いかは言うまでもないだろう。
「座布田さんは、何か作品をおすすめしてくれるような人っていますか?」
「え、なんですか急に」
「いいから答えてください。上司命令です」
あくまで暫定的な上司だけどな。心の中で毒を吐きながら、俺は答える。
「いえ……特にいるわけじゃないですね」
「そうですか……」
「……箕田さんはどうなんですか?」
そう言うと、箕田は神妙な面持ちで言った。
「いますよ。仲のいい同僚がよくホラー映画を薦めてくるんです」
「ホラーが好きなんですか?」
「全然。むしろ苦手なくらいですよ」
サイト購買部のレジ袋から菓子パンを取り出す。箕田は自分で食べるであろう分を取った後に、こちらに袋を渡してきた。中を覗くと、そこにはあんぱんと牛乳が入っていた。箕田曰く、俺の分らしい。あんぱんに牛乳って一昔前の張り込みかよ。そう思いながらも、俺はそれを袋から取り出し、箕田に感謝の言葉を投げかけた。
「私がホラーを見る理由は、大きく分けて2つあります」
「意外と少ないですね」
「そうでもないですよ。理由なんて、基本的には1つあれば十分ですから」
箕田があんぱんのパッケージを開ける。そして内容物を口に含み、咀嚼した。俺はその様子を眺めるふりをしながら、壁掛け時計を見ていた。現在時刻は午後9時56分。あと4分で巡回だ。
「……まず、1つ目。人間関係を保つためです」
「箕田さんでもそういうこと考えるんですね」
「考えますよ。信用は有限です。少しのミスで全てなくなってしまいます」
「そう思っているんですね」
「だからこそ、人間とのやり取りには慎重にならなければならないんです。私はそこで選択を間違え、多くの人からの信用を失いました」
彼でもそういうことがあるのか。なんだか意外だった。俺が箕田に抱いているイメージと言えば「完璧超人」のようなもので、抜け目ない人だと思っていた。でも実際には違ったようだ。彼も人間と言うことなのかもしれない。
「私は、もう信用を失いたくないんです。だから、同僚の薦めてくれた作品は全て履修します。たった1つの作品で人間関係が崩れたともなれば、それは本当に愚かそのものですから」
信用を失うことを過度に恐れているようだった。もしくは、彼なりに同僚の気持ちに応えようとしているのかもしれない。詳しいことは分からない。でも何か、執着じみた感情を抱いているように思った。
「2つ目の理由ですが──」
箕田が言葉を吐き出そうとしたとき、部屋中に電子音が鳴った。一瞬驚く。ホラー映画よりこっちの方が怖いかもしれない。これは箕田がセットしたアラームの音だ。午後10時になると鳴るように設定されている。巡回の時間がやってきた。
「時間ですね。行ってきます」
「行ってきますって……俺もついていきますよ」
「大丈夫ですよ。巡回には慣れてますから」
「でも、箕田さん怖いの苦手なんでしょ? 付き人いた方がいいですよ」
箕田が黙り込む。腕を組みながら何かを言っていたが、それが何なのかは分からない。
巡回用の装備一式をそろえて、俺と箕田は当直室を後にした。
◇ ◇ ◇
夜のサイトは暗くて静かだ。照明は全て消えていて、光源となるものは手持ちの懐中電灯だけ。通路には空調の唸り声と俺たちの足音だけが響いている。普段目にしている施設とは別の空間に迷い込んでしまったようだった。視界が不明瞭であり、通路の先が見えない。この先には何があるのだろう。行き止まりの壁があるのか、それとも通路が続いているのか。それとも、異常な空間へのポータルが展開されているのか。その全てが分からないでいる。
「箕田さん、大丈夫ですか?」
ひそひそ声で話しかけた。特に怖いわけではないが、なんとなく寂しくなったから。
「大丈夫ですよ」
「よかったです。怖いの苦手って言ってたんで」
「巡回には慣れてるって言ったでしょう? それにこれが私の仕事ですし、怖くてもやらないといけないんですよ」
その通りである。財団の仕事は手抜きと妥協を許さない。僅かなミスや気のほころびが世界を滅ぼしかねないからだ。箕田の姿勢は財団職員らしいもので、こういったところを徹底できる点が職務遂行能力の高さに繋がっているのではないかと思えた。
「……折角なので、私がホラーを見る2つ目の理由を話しましょうか」
「いいんですか?」
「はい。ただ無言で仕事をするより、何かを話しながらやった方が怖くないでしょう?」
そう言って、箕田は話し始めた。
「異常と向き合い続けることで、自らが異常に呑まれてしまうことは知っていますね?」
「はい。次第に精神を蝕まれ、徐々に異常な方向へと進んでいってしまうと」
「そうです。私はそうなりたくない。だから、ホラーを見ているんです」
論理が飛躍しているように思えた。確かに異常に呑まれることは嫌だし、そうなってしまえば碌な仕打ちが待っていないことも確かである。収容、カウンセリング、記憶処理。直属の上司が取り扱う仕事の関係上そういったことに対する理解はあるつもりだ。
とはいえ、それはホラーを見たからと言って解決するものではない。では何故、彼はそう言ったのか?
「ホラーには多様な恐怖演出が組み込まれています。血液、絶叫、モンスター、ジャンプスケア……そういった恐怖は、人を正常に近づける役割を持っているんです」
「そんなことないんじゃないですか? ホラーが人の精神を改善する事なんてないでしょう」
「確かに精神面が改善されることはありません。ですが、自らが異常に呑まれているかは判断することができます」
どうやって判断するのか。逡巡していると、箕田が続けた。
「恐怖というものは人間を危機から退けるための感覚の一つです。ですが、財団にいるとそれが鈍ってしまいます。座布田さん、あなたも心当たりがあるでしょう?」
そう言われて、昔の経験を思い出す。二本指の彼女と偶然出会い、殺されかけた時のことを。あの時の経験があったからこそ俺は暗闇の中に立っていられる。本来なら恐怖に足がすくんで動けなくなるところなのに、俺は自分の意思で暗闇の中を歩いている。これが何を意味するかは自明だった。
「異常な経験というのは、非異常な恐怖心を殺すんです。あの怪異に比べたらなんてことはない、アノマリーの方が恐ろしい……という風に怖さを消し去ってしまう。そうなってしまえば、立ちどころに異常に呑まれてしまう。異常に呑まれた後の人間がどうなるか、知っていますね?」
「……はい」
「私は自己の連続性を失いたくありません。万が一異常に呑まれて、同僚の前でボロを出してしまえばすぐに収容室……そうでなくとも隔離部屋に入れられてしまいます。それこそが私の思う『最も恐るべき結末』なんです。自由と信用を取り上げられることは、たまらなく恐ろしいですからね」
通路に足音が響いている。相変わらず暗くて、先は見えない。でも怖さは感じず、それどころか興奮している自分がいる。普段では知ることのできない世界に踏み込んで喜んでいる自分がいる。普段ならなんとも思わないのだろうが、今はそれがとてつもなく嫌だった。
「財団職員である以上、異常に呑まれる未来は避けられないのでしょう」
「別にそんなことないんじゃないですか? 何も絶対そうって訳じゃ──」
「それでも、私は人間でいたい。少しでも長く人間でありたい。異常に呑まれる未来を先送りにし続けたいんです」
「……」
「だから、ホラーに触れ続けるんです。普通の人が感じる恐怖を理解して、自分も怖がるべきものを怖がれるようになるために。恐怖が完全に死んでしまった人間は、もはや人間ではないですからね」
懐中電灯の明かりが暗闇を照らした。その先にある壁がはっきりと目に映る。俺は、それをじっと見つめていた。何をするでもなく、ただ漠然と見つめていた。
「とまあ、これが私がホラーを見る理由ですね。どうでしたか?」
「どうでしたかって……」
「まあ、困惑しますよね。部下に話したときも同じ反応されましたから」
「箕田さんは、自分が異常に呑まれないとは思わないんですか? 自分だけは違うって考えたりとかしないんですか?」
「全然。自分も人間だから、呑まれるときは吞まれると思ってますよ」
俺は何も言えなかった。箕田も一人の「人間」なのだと、はっきりと理解した。
「さあ、巡回を再開しますよ」
そう言って、彼は通路を歩いて行った。俺もその後をついていく。
◇ ◇ ◇
結論から言えば、サイトに異常はなかった。不審者もアノマリーの脱走も何もなかった。あの後は箕田と映画を見て巡回してを繰り返していたが、心の中にはしこりが残っていた。
「ざぶちゃんお疲れ~……ってあれ?」
「飯尾先輩」
「なになにどうした。浮かない顔してんじゃん」
目の前には俺の直属の上司──飯尾唯がいる。特徴的なポニーテールを揺らしながら、俺の方へと近づいてきた。不敵な笑みを浮かべながら彼は言った。
「もしかして、夜勤が怖かった?」
「いえ……特には。でも、怖いと思えた方がよかったのかもしれませんね」
「急にどうした?」
「箕田さんから聞いたんです。恐怖を感じない人間は人間じゃないって」
「つまり?」
「俺は夜勤にも、ホラーにも恐怖を感じませんでした。俺は人間じゃないんですか?」
飯尾先輩は笑みを崩さず──だけれども俺を両の目でしっかりと捉えて──言った。
「はじめん」
「……座布田です」
「お前は人間だよ。誰が何と言おうと」
「……そうですか」
先輩のその言葉が本物かは分からない。でも、彼が言うならそうなんだろう。恐怖から逃げるように、俺は先輩の言葉に縋った。
復活!人事コンテスト!!に参加します。
Genryuさん、
GW5さん、
rokurouruさんから批評をいただきました。ありがとうございました。