2054年 山口県某所
「第32戦闘群進軍せよ!」
自分の声で部隊は、前線へと向かっていった。周りは、水たまりがあちこちにある森だった。そこからも自動小銃に装填する音と頼もしいゼロのエンジン音がする。しかし当初は圧倒的だったが長引く戦闘で倒れた死体からは、チーズやくさやが腐ったような悪臭が立ち込めていた。
「竹下少尉!」遠くから走る報告兵の影が見えた。
「どうした?」
答えるとまた彼は言う。
「中央を担当する第23戦闘群より救援要請が届いております。救援に向かわれますか?」
中央は激戦地と聞く。それに対し自分たちの前線は明らかな優勢、あとは敵の防衛ラインを突破するだけだった。心の内では2つの思いが交錯していた──第23群へと援軍に向かうものかそれとも自分の有利な戦線で戦い続けるか。ここで向かったとして中央の戦線を支えきれるのか、持ち場の戦線が崩壊しないか。しかも向かわなければまず死ぬことはない……
「救援には向かわない。このまま前線を突破することで敵陣地内から側面の奇襲を仕掛ける。」
「了解しました。」
報告兵は自分の返答を聞いた後、そう言って走っていった。
あんなことを言ってしまったが前線は突破できていなかった。死体はこれまでと比にならないほど増えていく。水たまりは赤く染まっていった。ゼロの攻撃も塹壕を相手に効果がいまひとつなのだ。歩兵の攻撃が塹壕に通じるわけがない。このままでは、犠牲が増えるのも必至だった。
──これは、中央へと向かわなかったからなのか?
その場は、血の匂いがした。
最後は上層部から撤退の指示が出された。内容は負けと言って等しいものだった。財団の死者は700人。それに対し毛利派の死者は同等か少し多い位だった。しかも参戦勢力に関しては財団のほうが上回っていたにも関わらずだ。相手は守りきれば良いだけだがこちらは戦略目標は達成できていない。
事件後のお咎めはなかった。死者の数を聞いたとき、「自分の判断」のせいで──その日どころかしばらくの間、寝ることもままならなかった。仕事の途中にこのことを考え職務どころではなかった。
2056年 福岡県某サイト
重たい雲が地平線を覆い尽くしている。道端の草花はしっとりと濡れ、葉の先には水滴がまるで宝石のように輝いていた。大粒の雨が屋根を激しく叩きつけ、空は鈍色に暗く曇り、陰湿な空気が漂っている。湿った風が顔に触れ、どこか寂しげな気持ちをもたらす。
窓の奥に遠く見える静まり返った街では、傘を差した人々が行き交っている。雨が続く日々の中で、人々はそれぞれの思いを胸に秘め、静かに時を過ごしている。湿った空気の中で、何か新しい出来事や別れが待っているような気配を感じながら。
昼下がりのオフィスの片隅、私は一杯のコーヒーを手に、窓の外を眺めていた。香ばしい香りが漂う中、温かいマグカップを両手で包み込み、そのぬくもりが心をほっと和ませてくれる。
一口飲むと、豊かな味わいが広がり、少しだけ気持ちが落ち着く。外の世界は湿った空気に包まれ、視界は曇っているけれど、この瞬間だけは特別なものに感じられた。オフィスの雑踏の中で、私は自分の思考に没頭し、コーヒーの余韻を楽しんだ。
しかし、これからやるべきことが待っている。コーヒーを飲み干し、マグカップをテーブルに置くと、気を取り直してバッグの中からノートパソコンを取り出す。
パソコンのロックを解除し、財団のネットワークへと接続を始めることにした。
「えーと、竹下……っと。パスワードは……」
私の名前とパスワードを入力が終わると、これからの仕事が表示された。今日は過去に起こった政治家殺人未遂事件の監視カメラ映像を解析することが求められていた。
画面の明るさを少し上げ、有線イヤホンを耳にする。周囲のざわめきが遠のき、映像の中に没入できる。イヤホンから流れる音声が、警備員たちの緊急の指示や、観衆のざわめきを鮮明に伝えてくる。
映像が再生されると、一ヶ月前の衝撃的な瞬間が、目の前に蘇る。壇上に立つ政治家の姿は、当時の緊張感をそのまま伝えていた。観衆の中に緊張が漂い、カメラはその瞬間を逃さず捉えていた。
不意に政治家の後方に怪しい影が現れた。走っていると思うとすぐに止まり胸元へと手を伸ばた。私は思わず息を呑む。映像の中でひとりだけ動き出した。それはエージェント島田だった。。
男は、胸元から取り出した銃の撃鉄を起こすその手は震えている。次の瞬間、銃声が響く。エージェント島田は政治家を守るために上へと思い切り飛んだ。エージェント島田のスーツは緋色に染まっていた。気づいたときには、もう倒れ込んでいる。その場の混乱、悲鳴、急に静まり返った空気が、映像の中で交錯していた。今まで熱狂していた観衆は、血相を変えて一斉に走り出す。
銃を持つその手は、慌ただしい観衆には目もくれず鋭い視線とともに次の発砲の準備を進める。そしてまた一発、二発と銃声が響く。SPが犯人へと思い切り走り出す。手に固く握りしめていた銃は宙を舞い、地面に伏せた犯人は、肩の関節を極められ逃げられなかった。
誰が、この陰惨な計画の背後にいるのか。何が真実で、何が隠されているのか。あのとき英断を下したエージェント島田に強い敬意を抱いた。しかし2年前──あのとき同じように決断できなかった自分と重ねてしまった。その瞬間、改めてエージェント島田に尊敬の思いと自分への嫌悪は強まった。
映像にはパトカー、救急車が映る。救急車はエージェント島田を乗せすぐに走り去ってしまう。サイレンの音がうるさい。
この頃、自分は連絡を受けて病院へとひたすら走ったことを覚えている。その時の記憶が鮮明に蘇ってくる。あの事件が起こった時、私はオフィスでの業務に没頭していた。突然、携帯電話が鳴り響き、慌てて受話器を取った。冷たい声が響いた。
「竹下さんでお間違い無いですか。」
「はい。あってますけど……」
「大元さんが病院まで運ばれています。」
「わかりました……今すぐ向かいます。」
一瞬、全身が凍りついた。心臓が激しく鼓動し、血の気が引いていくのを感じる。頭の中で状況が整理できず、ただ「なんとかしなければ」という思いだけが膨れ上がる。私は迷わずオフィスを飛び出し、外の太陽が降り注ぐ中を走った。
道を駆け抜けるたびに、彼の無事を祈った。信号が赤に変わるたびに立ち止まり、また急ぎ足で進む。病院の明かりが見えた時、安堵と恐怖が入り混じり、胸が締め付けられるようだった。
病院の入口に辿り着くと、冷たい白い壁が目に飛び込んできた。受付の看護師に事情を説明し、彼の病室へと急ぐ。心の中で、彼が無事でいてくれることを願い続けた。
病室のドアを開けると、目の前に広がったのは、まだ生きていた彼の姿だった。包帯が腹部にぐるりと巻かれ、顔色は悪く、安静を保つために寝かされている。思わず涙がこみ上げた。彼は私のために命を懸けて戦ったのだ。
「竹下さんですか。」
「あぁ。具合は?」
「大丈夫ですよ。心配しなくてもいいですって〜」
その言葉を信じ安堵していた。しばらく話していると彼はみるみるうちに具合が悪くなっていく。いそいでナースコールして医師達を呼び出した。
二、三分していると彼らはやってきた。純白の白衣をまとっている医師は、険悪な顔をしている。近くにある心拍計を急いでエージェント島田へとセットすると明らかに大丈夫じゃない鼓動。鼓動の間隔が長くなっていく。
「竹下さん、自分役に立てましたか?財団のため、未来のため、世界のためになれたでしょうか……」
「十分に果たしたさ。これからは私達の仕事だ。すまなかった。英雄へ敬礼を。」
「ありがとうございます……託しますよ……」
最後、彼から出た言葉は息が掠れて出たような声。その瞬間、過去の出来事が脳裏に甦る。警備をする彼の姿、任務を共にした数々の瞬間、互いに助け合いながら歩んできた道のり。彼の無事を信じて、再びあの日の映像に目を戻す。今、私はその時の悲劇の真実を掘り起こす責任がある。モニターの中で、事件の一部始終が再生されていく。彼の犠牲は決して無駄にはできない。
ドアが開く。
「突入準備完了しました。」
「了解」報告兵へと呟やいた。
部屋へと入ってきた報告兵を連れて、作戦指揮室の中にこもり部隊の報告を待ち行く末を見守ることにした。部屋の中には緊張感が空気を支配している。音楽番組でよく見る頭につけるマイクを付ける。
「突入を開始せよ。」
静かな司令室で私が言った。隊員が一斉に動き出したことを無線越しに聞こえる雑踏が告げる。状況は現場からの報告と無線越しの音声が頼りだ。
一瞬、何もかもが静かになったような気がする。この瞬間だけがとても怖い。音もなく、敵の動きもなく、ただ緊張が続く。敵が動かないのは幸いなのかもしれないが、それでも違和感が拭えない。
「玄関クリア!」
無線越しに隊員の声が聞こえる。その声には震えが混じっている。私は椅子に深く腰掛けた。今まであまりにも順調すぎる。この沈黙が崩れるのはいつだ?
「警戒態勢を厳にし、慎重に進め。」
短く指示を出し、再び無線から聞こえる音声に集中する。何かがおかしい。直感がそう告げている。すぐに気づいた。銃声が一発も聞こえないのだ。警戒もなしに隊員が進めていることが異常だ。罠なのか?どうであろうと、私は今、彼らを信じるしかない。遠く離れた場所から、見守ることしかできないのがもどかしい。
「作戦成功。被害なし。捕虜はどうしますか?」
「捕虜はこのサイトへと送れ。」
「了解。」
何もなかったようで安心した。しかし少しは負傷なりでも被害はでると予想していたが外れた。何かがおかしい。改めて思い直した。
コーヒーを淹れて、マグカップを口へと持っていく。甘さが口一面に広がり、その後にくる苦さが良い後味を醸し出している。そうしてコーヒーを嗜んでいた。しばらくしているとこのサイトに大量の車が押しかけてきた。うるさいエンジンが静かになっていくと寂しくなってくる。
休憩室を出て第一監視室へと向かう。今からは先程送られてきた捕虜のインタビューの補助を行わなければならない。ドアを開けると部屋には、パソコンが置かれ大量のマニュアルが崩れそうなほどに積み上げられている。
パソコンはすでに起動してあって財団のネットワークへもアクセスしてあった。画面にはアクリル板で区切られた部屋が映し出されている。そこにはエージェント浜本とパソコンが置かれている。
ノックする音が聞こえる。エージェント浜本の声とともに、男が入ってくる。財団支給の灰色の留置服を身にまとって。
「入れ。」
「失礼します。」
少し肉付きの良いその男は、礼儀が正しいようだ。椅子を目の前にしながらも男は座ろうとはしない。
「座れ。」
「ありがとうございます。」
男は椅子を引き、座る。背筋を伸ばし手を膝に置く。その姿は小学生の優等生を彷彿とさせる。それとともにどこからか真面目さが伝わってくる。
「今日はよろしくお願いします。」
「よろしくお願いします。」
普通の挨拶から始まる。このまま何も起きないだろうな。お互い、淡々と話している。
「名前をお聞きしても?」
「永塚です。」
「毛利派について教えてくれませんか。」
永塚は沈黙を貫く。先程までの礼儀正しい態度は急に子どものように意地を張る様になった。エージェント浜本が問い続けていると永塚は沈黙が崩れた。
「わかりました。詳しいことは知らないですが毛利派は……」
椅子は凄まじい音を立て横に倒れる。
「永塚! インタビュー中断。医療班! 医療班は……」
エージェント浜本は焦りきり部屋を出ていく。それと同じ頃に部屋を出た。廊下ではエージェント浜本と鉢合わせた。共に倒れた部屋に走っていく。倒れた彼を担架に乗せて医務課へと駆け込んだ。
「竹下さん どうしたんですか!」
医師は言う。医師の首に松阪と書かれたプレートを掛けながら。私の額から汗が止まらない。それはエージェント浜本も一緒だった。
「この人を助けてください。」
「わかりました。自分はこれから準備があるので、脈などを確認してください。」
その言葉どおり脈を測る。鼓動は弱々しい。心臓マッサージを続ける他なかった。永塚は検査室へと運ばれる。数分すると医師から驚きの言葉が聞こえた。
「原因の特定は完了しました。しかしもうかなり手遅れです。」
「その原因とはなんですか?」
医師はプリントを見せながら話す。
「原因はタリウム。化学物質です。」
「何なんですか?それは。」
「成人でも1gで死に至るというきわめて強力な劇薬です。」
「松阪さん、彼の体を見せてくれませんか?」
そういうと医師はすぐに案内してくれた。最期の顔は苦しんだ顔。なにか手がかりが無いか――そう思い体中を探した。すると右の手首には四角い5mm四方の物体を見つけた。
「これはなんですか?」
「わかりません。検査は可能ですよ。」
「お願いします。」
医師は頷くとすぐに検査道具の準備へと映る。レントゲンを撮るようだ。
レントゲン写真にはなにかその物体の中に液体が少し入っているようだった。その成分も調べてみると劇薬検査に陽性と出た。その結果は、タリウム。先程の物質だ。
「この四角い物体をより詳しく調べてください。」
「他の人達と協力して調べてみますよ。」
返事はそっけない。数時間すると、あの医師が出てくる。何だったんですかあの物体の正体は。そう問いた。
「マイクロチップです。誰か仕掛けたなどはわかりませんがね。」
「ありがとうございます。」
その結果を聞き何かが関わっているに違いない。自分の部屋に戻り考えてみた。結論はすぐに出た。
廊下の静寂を破るように、重いドアが突然「バン!」と音を立てて開いた。古びた木の扉は、その衝撃で壁にぶつかり、耳をつんざくような音が広がった。
「騒がしいぞ!静かにしろ。」腹が立ち言葉を荒げて言ってしまった。
「すまない。きつく言いすぎた。」
「構いません。それよりも重要なことが……」
相手の声は、申し訳なさが滲んでいた。疑念が渦巻く。目を合わせることなく、不安な気持ちを抑えようとした。その心の奥で何をそんなに急ぐのか、と軽く考えていた。
「毛利派から戦線が布告されました!」