世界に巡る因果流の果て。その人物はただまっすぐと地上を見下ろして、過ぎる人類の営みをその目の中に映し続けていた。塔によって乱された因果律は、世界のすべてを塗り替え続ける。ただ一つの到達目標のためにトライ&エラーを繰り返す機構は、因果を狂わせ続けていた。その人物はそれをとやかくは思わない。それは必定であり、変わらないからである。問題はその先だ。
思案の最中、因果流の中に特異点を見つける。その点は川中の岩のように、流れに影響されずにいる。その人物はこの状況を理解するためにも、特異点の把握に取り掛かった。
太陽は傾きはじめ、空の色が変わり始める時間。合衆国の東海岸に沿って伸びる州間高速道路95号線に形成された車の群れは、鈍重な動きでノロノロと進んでいた。その長蛇の列の中の黒いベンツの車内には、ビヨンセの曲がカーオーディオから延々と流れていた。運転席に座っていた女は、ドリンクホルダーに入っていたカップをハンドルを握っていない右手で取りストローからアイスコーヒーを啜ろうとすると、すぐにズゾゾゾゾという下品な音が鳴る。女はカップをドリンクホルダーに戻しながらFワードを呟いた。
「ドロシー、良かったらだけど、私の飲む?」
その様子を見た助手席に座っていた女が、気を使って声を掛けた。ドロシーと呼ばれた運転手の女は、食い気味に答える。
「いらないわ。私、他人が口につけたものは飲んだり食べたりしない主義なの」
そ、そっか、と助手席の女は相槌を打ってから暫くして、代案を出す。
「じゃ、次のサービスエリアが見えたら休憩しよっか!」
「そうね、休んでたりしたら夜までにニューヨークに着かないという事実を無視するのであれば、良さそうな選択ね」
その嫌味にあふれた返答に、どう反応すればいいのか分からず、助手席の広末サマンサはただ愛想笑いを行った。正直今の状態のドロシー・ウッドと二人で車内という環境に監禁されている状態は、サマンサにとって苦痛でしかなかった。否、ドロシーは決して悪い人間ではないのである。ちょっとイラつくと人に当たりやすくて、二人きりでいるときのような、パワー・バランスが分かりやすい状況に置かれていれば、それが顕著に出てしまうという欠点があるだけで。この休日を利用して彼女らは本当は3人でニューヨークに旅行に行く予定であった。だがもう一人の友は当日にドタキャンを行ってしまい、それに追い打ちをかけるように酷い渋滞に巻き込まれてしまって、今に至る。
「あ〜あ、ビヨンセの曲も聞き飽きたわ」
ドロシーはオーディオを消して、大きくため息をつく。そして車の窓を開け左肘を窓枠に置き、頬杖をついて口を開いた。
「ね〜、暇だからさ、サマンサ、面白い話してよ」
サマンサは唐突な無茶振りに戸惑った。「面白い話」を考える前に、ドロシーに一言入れることも考えた。だが、プライドの強い彼女のことだ。それで反省して、気分を切り替えるとは思えない。それどころか、車の持ち主であり、かつ運転手という立場を強調して、サマンサにさらに強く言うようになってしまうだろう。サマンサはすぐに「面白い話」をすることに決め、思考を駆け巡らせて言葉を捻り出した。
「例のダエーバイト文明の遺跡がね、新しくロシアで見つかったらしくて━」
「ちょっと、今は夏休みなんだからこんなところでまで歴史の話しないでよ!」
ドロシーはサマンサを遮るようにして発言した。ドロシーとサマンサは同じイェール大学の歴史学部に所属しているが、ドロシーはサマンサほど歴史に対する学術的な関心が高いわけではなく、そこの面でも彼女らはズレていた。サマンサは少し残念そうにしながらも、めげずになんとか話題を挙げた。
「えっ……と、じゃあ、そうだな、私が今日見た……夢の話……とか」
「夢の話って大抵つまらないじゃない!」
ドロシーは即座にサマンサを否定した。サマンサは今度こそ口をつぐんでしまい、車内には静寂が訪れた。しかしその静寂はしばらくして切り裂かれる。
「えっとね、ドライブする夢だったんだけど。うん、あれはそう、運転手は骸骨だった。その骸骨は、私の彼氏だった。私たちはアイルランドにあるおばあちゃんの家に向かってた」
サマンサは吹っ切れた。ドロシーが増長するのは、自分が大人しくしているからだと思った。それに、自分が好きなように話せば、きっとおかしくみえるだろう。それはきっと面白い。サマンサはドロシーの様子を気にすることもなく、淡々と話し続ける。
「そう、私の母方の家系は、アイルランドの魔女の家系なんだよ!ミドルネームのゴールウェイは、そこから取られてきてるの!」
「ちょ、ちょっとサマンサ突然どうしちゃったの!?」
「私は魔法を使えるの!杖から火も出せちゃうし、嵐だって起こせちゃうかもしれない!いいでしょ」
「いや、それって夢の話でしょ!なんで夢を事実かのように話してんのよ!サマンサの母方の家はニューヨークで昔から新聞社やってるんじゃなかったの?わたしたち今日そこに泊まる予定だったじゃない!」
「そうだよ。でも、でもね、きっとあれは夢じゃない!あれはまさしく事実なんだよ!」
「いや、そんなファンタジーは日常に溶け込むことはないでしょ!」
「ホントにそうかな?世界はこれからも、きっとますます異常になっていく!私の予想だとね……」
車内は「異常」な未来の予想で盛り上がる。ドロシーは、サマンサに振り回されるようにして、パワーバランスが逆転する。サマンサはこうなることは予測していなかったが、異常な世界の話をするのが楽しくて、もうどうでもよくなっていた。サマンサは、この世界が好きだった。
太陽が朱色に揺めき、空もまたその色で染まっていく。しかし翌日、世界が緋色に堕ちることを、まだ彼女らは知らない。
太陽は天蓋の頂上にいて、空には限りない快晴が広がる時間。といっても、スリーポートランドの空は、"市長"によって管理されているもので、太陽も、空も、夜も、全てがつくられたものである。そんな不思議な小型宇宙であるスリーポートランドの外周に沿って伸びるメインロードの果て、ポートランド島側ポータル前出入国管理所の前に形成された車の群れは、鈍重な動きでノロノロと進んでいた。その長蛇の列の中の黒いカムリの車内には、クラシックがカーオーディオから延々と流れていた。運転席に座っていたスケルトンは、ハンドルを握っていない方の白い"人差し指"をドリンクホルダーに入れてあるカップの中に差し入れる。白い指は黒いような、青いような神秘的な色に変わっており、その指を自らの首に押し当てて、何かを唱えた。
「ふぅ、人間が作り出した車という空間の中はエーテルの循環が悪いようでね。サマンサ君は熱かったりしないかい?」
骸骨は助手席を見てコツコツと笑った。オシャレな帽子がグラグラと揺れる。
「え、うん、大丈夫。それよりも、エーテル流ってそんな風に調整してるんだ」
広末サマンサは自身の感情を隠すために、会話の裾を掴んだ。もちろんスケルトンの身体構造に興味があるというのは決して間違いではないが、今回に関してはただ会話を続けるための話題振りという役目が大きかった。
「そうだね。スケルトンに二種類、うーん、まぁ、それ以外もいるっちゃいるけど、おおまかに二種類ってことはサマンサ君も知っていると思うけど、僕は所謂アンデッドではなくて、死亡由来ではない霊魂、つまりはノン・ネクロティックというやつなんだよ」
このスケルトン、ルーベン・バニスターはサマンサと同じくディア大学で学ぶ一年生であった。ただし、サマンサが歴史・社会学部に所属しているのに対し、ルーベンは魔術学部に在籍している。そんな二人はある共通の団体に所属していた。ディア大学において学生新聞を発行するオデッセイ社である。二人は研修時から同じチームで活動をしており、仲を深めていった。そして前期の授業が全て終了した週末に、ルーベンはサマンサに愛の告白を行った。
「以前話したと思うけど、僕の父親は、死体を墓場から掘り出した訳じゃない。僕のために骨格を組成したんだ。そしてその体に超自然的な霊魂を紐づけたわけだね。だから僕はアンデッド系スケルトンとは異なっていて、いわばロボットみたいなものだ。定期的にメンテナンスをしてやんなきゃいけない」
広末サマンサはその申し出を受けた。つまり、二人は恋人となった。今日は、二人の恋仲として初めての遠出である。彼らはスリーポートランドを経由してサマンサの母方の祖母が住むアイルランドに向かおうとしていた。
「だから、こうしてエーテル脂を使ってエーテル流の流れを良くしてあげる必要がある。ホントは出かける前と帰ってきた後確認するぐらいで十分なんだけどね、こう、鉄の箱に長時間押し込められてたらさ。にしてもホントに進まないなぁ。飛行機で行くよりは絶対に速いんだけども、結局入国管理で時間かかるんだね」
「あぁ、そうだね、はは」
サマンサは乾いた笑い声を出す。サマンサはルーベンとどう付き合えばいいか分からなかった。これまで勉強ばかり行ってきて、誰かと交際したことのないサマンサにとって恋人にどのように接するのが良いのか分からなかった。もちろん、大学で恋をするのには憧れていたし、ルーベンのことは嫌いではない。
「やっぱり、サマンサ君大丈夫かい?いつもの君らしくない感じじゃない気がするけれども」
ルーベンは紳士的で、趣味もいい。知的であるし、かといって気取ってもいない。彼と話すことは面白いし、ファッションセンスもいい。友人として、仕事仲間として、"ヒト"として信用できる。
「その、ごめん、私、どうやって、ルーベンと話せばいいか分からなくて」
「ごめん、全然気が回ってなかったね。いつも通り接してくれればそれだけで嬉しいよ。君と話せてるだけで僕は嬉しい。恋人っぽい振舞いを初めてのデートでするなんて無理に決まってるさ」
サマンサはほっとした。彼はやはりいいヒトだし、好きだ。だからこそ、彼には言わなければいけないと思った。
「そっか!私、考えすぎだったかも。えー、じゃあ何の話しようか」
「うーん、じゃあだいたいいつ話しても面白くない話の代名詞である夢の話でもしようか!」
「え、その流れでそんな話題のふり方ある!?」
サマンサは楽しそうに笑うのと同時に強く決意した。やっぱりサマンサはルーベンのことを恋愛対象としては見れないと思った。結局のところ、骸骨に情愛を抱くほど、サマンサは"ヒト"の幻想を受け入れることはできなかった。この旅行から帰ったら、それとなく伝えて、ルーベンには謝ろう。彼の気持ちを弄んでしまったことを。そして、これならも良き友人として接してくれることを望むことを伝えよう。そうサマンサは思った。
スリーポートランドの太陽は、よりいっそう輝いた。空全体にその光が伝わり、青色がより透き通った色に変わる。一方、地上の車は未だにノロノロと進んでいる。二人が乗ったカムリも少し前に進んだが、入国管理所に着くまでまだまだ時間がかかりそうであった。もちろん、そんなこと彼らは大して気にしていなかった。
結論から言えば、彼らは約一年間この渋滞を抜けられない。
太陽はとっくの昔に沈み、皆が寝静まる時間。月は明るく輝いてるが、科学的に言えばそれは太陽の光を反射しているにすぎない。八王子インターチェンジの料金所の前に形成された車の群れは、進んでいなかった。その長蛇の列の中の青いアクアの車内には、「この世界、終わらせたくknight ~パリピ騎士メン募集中~」(通称「終わK」)の曲がカーオーディオから延々と流れていた。女学生たちは、完全に防音された車内で流れる音楽に耳を傾けている。
War! War on all fronts
「終わK」の楽曲である「War on all fronts」は若者を中心に強く評価されていた。彼らは異常な楽曲を作成することは知られていたが、通常発表されている楽曲は異常性が含まれないことをレーベルと各種正常性維持団体は保証している。
「くぅ、やっぱりこの曲アガるわ〜」
運転席に座っていた小園井こぞのい来海くるみは、肩を揺らして言った。助手席に座っていた広末サマンサも頷いて同意する。
「次は、おっ、『Third Law』だね!これ、サマンサの推し曲じゃーん!」
金色のショートボブが、助手席の方を向くのと同時にサラサラと揺れる。
「ホントに好きな曲。なんだかワクワクした気持ちになるから」
サマンサと来海はどちらも花籠学園大学の国際社会学部の一年生である。その後、どちらも「終わK」のファンであるということで意気投合することとなった。この休日は、サマンサの恋昏崎の実家への帰省に来海もついていくこととなった。
First, any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic
もちろん、東京から恋昏崎への渡り船が着く静岡程度の距離であれば、高速道路、それどころか下道で十分なのだが、2017年の超常技術は、次元路なるものを生み出した。ある地点からある地点へと、次元の隙間に本来の距離よりも短い道を通して移動する技術であり、モノとヒトの高速移動を可能にさせることとなった。サマンサと来海はこの次元路を利用して、静岡まで一瞬で移動することにしたのである。ただし次元路は昼間は利用客が多いため混雑しやすく、かつ料金が高いため、夜間に出発することを二人は選んだ。
Second, technology is neither good nor bad nor is it neutral
ではなぜ二人はこうして車を止めて曲を聴いているのか。いつもであれば一般道からシームレスに次元路に乗り入れることができるのだが、電光掲示板によるとポータルに緊急のメンテナンスが行われているのだという。メンテナンスは10分程度で終わると知り、二人は次元路前の料金所付近で待機することとなった。
Third, to every action there is always opposed an equal reaction
サマンサは目を閉じて楽曲に身を委ねる。滑らかな音が鼓膜を揺らし、どこか違う場所に連れて行かれてしまうという気持ちさえしてくるのであった。
「サマンサちゃんは可愛いねぇ」
来海は微笑みを浮かべて言った。サマンサは茶化して返答する。
「でしょ」
サマンサは来海のことを友人として信用していた。その信用はあの「恋昏崎」に入れようと思えるほどだった。恋昏崎は実は地球に存在しない。異なる惑星に存在する場所であり、入る方法はトップ・シークレットとされていた。であるため、恋昏崎住民であるサマンサが来海を恋昏崎に招待することは最大の信用の現れであるといえる。しかし、ヴェールが破れる前から続いてきたセキュリティも、1回の失敗でダメになってしまう。サマンサは念には念をいれて最終確認として来海のことを揺さぶる計画を立てていた。そのタイミングをいまかいまかと待ち構えていたサマンサに丁度良く、会話が途切れるタイミングが訪れた。
「はぁ、なんか疲れたなぁ」
「え、疲れたなら寝ていいよ!私そんなこと気にしないから安心して」
「ねぇ、この次元路のメンテナンス、いつ終わるの?もう20分は経ってるよねぇ」
「うん、確かに長い」
「次元路の緊急メンテナンスっていうのもあんま聞かないし、結構重めのメンテナンスなんじゃないかなぁ。なんか数時間コースになりそうじゃないですか」
「だったらもう長くなるって連絡入るんじゃない?さすがにプロ集団がその判断に20分以上かけるとは思えないけど」
「多分上の指示がなきゃ現場の人間誰も判断できないんだよ、そんな感じする。もう今日は諦めて帰ろうよ」
恋昏崎に行くことに対してネガティブな感情を呈示して、来海の様子を観察する。眉の動き。瞳孔の開き方。呼吸のペース。それらの表情の変化は想定の範囲内の動揺を越していた。
「ええっ!?いや、あと数十分できっと終わると思うし待とうよ。サマンサ!将来記者になるつもりならここで待てる余裕はなきゃだめだろ!」
おかしい。口調がブレている。友人を信じたい気持ちを抑えて、まだまだ揺さぶることにした。
「なんかお腹も痛くなってきたし」
「えっ、じゃあそこの休憩所にあるトイレ使ってきなよ。私車見てるからさ」
もっと揺さぶりが必要だ。来海に罪悪感を抱きながらも、声を荒げる。
「あんなところのトイレって大体汚いじゃん!」
「えぇ、我慢しなよ」
「もう、あのさぁマジで、あぁ、もう」
ここで言語化することのできないストレスを表現する。ここで粗目の呼吸を入れてから、キレる。
「あのさ、私言いたくないんだけどさ、ほんっとにさ、前からさ、ずっと来海には思ってたんだけどさ、はぁ。ちょっと、ちょ、マジでさ、なんでそんなに人に何かを押し付ける訳!?ほんっとさ……。私さぁ、次元路なんて使いたいなんて言った!?ねぇ返事は!?来海が使いたいって言ったからこうなってるわけじゃん。それにそれにそれに、夜に出発してるのもほんっとにありえない。下道をゆっくりドライブするのじゃダメだったの!?はぁ、ほんっとやだ」
「サ、サマンサさん・・・?」
「あのね、私ね、なんで普段から怒らないか分かる?怒りたくないからなんだよ。こうやって怒り出すと、止まらなくなっちゃうわけ。だからね、いつもず~っと我慢してるの。でもね、今こうやって、溜まって爆発しちゃったわけ。もう嫌。楽しみだった帰省がパー。もうだめだ。無理です。無理」
サマンサは車扉を開けて外に飛び出し、勢いよく閉めた。サマンサはこういう風に突然怒り始めるめんどくさい人間を知っている。来海には試すようなことをして、申し訳ない気持ちが尋常なく高まっていた。しかし、決意を持って車の群れをゆっくりと掻き分けて進む。私の友達の来海であれば、きっと私の信頼を取り戻してくれるはず。そう信じながら。
外宇宙に漕ぎ出して その先を探しに行こう
ふと振り返ると、来海が歌いながら近づいてきた。息遣いは激しく、呼気が白い煙となって消えていく。
星の一つ一つを 誰も知らないものを見つけよう
その歌は、「終わK」のボスでありボーカルであるMC:NightCapがあるカルト宗教が起こしたテロに巻き込まれた友人を弔って作曲したという「Outer Space」であった。これは「終わK」としての活動を始める前の楽曲であり、簡単にはサーチできない知る人ぞ知ると呼ばれるものである。
ダークマターを切り裂いて これからを掴み取ろう
来海は歌い終わると、サマンサを抱きしめた。
「この曲、知ってる?サマンサが好きそうだと思ったんだけど━━いや、違うな、サマンサに似合う曲だって私は思った」
「その、視線、視線!」
サマンサは回りのドライバーの視線に今更気づき、来海の耳元に伝える。
「サマンサ、今までずっと伝えることができてなかったけど、私、サマンサのこと好きだよ。サマンサの意思の宿ったその瞳が好きだ。サマンサと一緒なら、どんなところでも生きていけるような。そんな気がする」
「は、えぇ!?」
サマンサは困惑した。この状況で、明らかに発する言葉ではない。道路のど真ん中で、告白されてしまった。人生で初めて告白されてしまった。
「友愛じゃないよ。これは情愛。今、返事を聞かせてほしい。私のことをどう思ってる?」
来海の目が、十数センチの場所に近づいてくる。訳が分からなかった。グラグラと視界が揺れて、胸の鼓動は激しく打ち続けた。
「なーんてね!」
来海はサマンサにデコピンを食らわして大きく笑った。サマンサは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして呆然とする。
「サマンサ、演技が下手すぎ!明らかにらしくなかったもん」
「そ、そんなぁ!」
サマンサからへなへなと身体中の力が抜けると同時に、次元路のメンテナンスが終わったことを伝える音声が放送される。
「ちょっ、まずい!サマンサはやく車乗り込まなきゃ邪魔になっちゃうよ!」
来海はサマンサの手を掴み走り出す。サマンサは引っ張られるようにして足を動かす。厚手の長袖から見える白い手首が、力強く見えた。サマンサは雰囲気に流されないように聞いた。
「ねぇ、さっき、なんで行くのやめようって言ったらあんなに動揺したの!?」
来海は息を切らしながら、振り返って言った。
「そりゃあ、もちろん」
月が大きく輝いた。その光は太陽の反射によるものではなかった。車の群れを飲み込むために次元路が大きく口を開き、車の群れを飲み込んでいく。ナンバープレートが闇の中できらめいて数秒後、再び次元路のポータルは口を噤んだ。
太陽は天井に敷き詰められたガラスの空から顔を見せ、その光が人口の壁で囲まれたアース・ワンの根本に広がる空間を温める。それはかつて人々が夢見た軌道エレベーターの残骸。アース・ワンと呼ばれたそれは、安全性の担保された高次元マンションに人類の生存権の拡大という役目を奪われ、土台となる海上メガフロートの建設が終わった後すぐに計画は中止された。大金はたいた国際軌道エレベーター建造委員会の重役たちの末路についてここでは触れない。
しかしながら、赤道直下の太平洋上には、合金の塊と労働者が残されて、結果としてそこは彼らの楽園となった。海上メガフロートの内部の巨大な空間に、住民は生活区を形成した。いつしか彼らはここをアトリア──attolliaはラテン語で上下する場所の意である──と呼称するようになった。
アトリアの中には01~06までの地区があり、03地区は主にインド系の人々が多く暮らしている。その03地区のメインストリートの真ん中を走る路面電車の中に1人の女がいた。女は車窓から見えるリトル・インディアの流れる景色を"目"で見て、動画投稿型SNSのPlantalotに投稿していた。
「えっとタグは、そうだな、#attollia、#travel、#landscapeでよし、と」
広末サマンサは投稿を思考した。その瞬間電脳を通じて世界に映像が届けられることとなった。広末デスクはSNSの運用によって恋昏崎ニュースエージェンシーの顧客の増加につながると信じてやまないのである。その時車掌が駅に到着することを告げるアナウンスを流した。
「よし、ここだな。ライフラフトのアトリア支部は」
サマンサは軽快に電車から降りると、マップを思い描く。しかしいつものようにはいかない。
「あっ、そうか、ここ道とかのデータが整備されてないからナビは使えないのか!」
近年形成されたばかりのこの国では企業によるデータ収集がされていないために、ナビゲーションシステムを使用することができなかった。
「でも、どっちにせよいらなかったかな。あそこだけ妙に因果流が乱れてるし、あそこがライフラフトでしょう」
外周部に向かって伸びる路地を進む。本来、赤道直下の国であれば年間気温は平均30度ほどあり、暑いはずであるが、サマンサは汗の一つもかいていなかった。これはアース・ワンに残されたロストテクノロジーが機能し生活区は適温に保たれているからである。外気に含まれる灰もまた取り除かれ、人類の生存に適した空間となっていた。
しばらく歩いていると大きめの寮のような建物が見えてくる。しかしながら、これは世界のライフラフトの拠点の中でも小さいほうである。ライフラフト。異世界からの漂流者の互助組織。ヴェールの崩壊以前から存在していた組織ではあるが、公に認知されることでその規模は大きく拡大することになった。しかし、数年前にできたばかりのこのアトリアに何故ライフラフトが存在するのか。それを解明することがサマンサの取材理由であった。敷地の前に、手を振る東アジア系の顔つきをした八つ目のある男がいた。サマンサは彼に歩み寄る。
「はじめまして、恋昏崎ニュースエージェンシーの広末サマンサと申します。改めまして取材のお願いを引き受けてくださりありがとうございます。今日はよろしくお願い致します」
サマンサは頭を下げると、男はすぐに応答する。
「いやいや、こちらこそ私たちのことについて世界中に知って頂きたいと思っておりましたので、世界的なメディアである恋昏崎さんに取り上げて頂き嬉しい限りです。えー、はじめまして、アトリアのライフラフトの代表者をやっております、椎崎しいざき勉つとむと申します。よろしくお願い致します」
「このたびはお忙しいところ、貴重なお話を聞かせて頂きまして誠にありがとうございました。皆さまがどのような苦慮に遭われ、ここで暮らされているのかをよく理解することができました。記事については掲載する際にまた連絡致します。これからも、再度ご教示をいただかねばならないことも多々あるかと存じます。今後とも、何卒よろしくお願い申し上げます。それでは、失礼いたします」
3時間後。サマンサは取材を終え、暗くなりつつある街にまた戻ってきていた。上層に存在する旅行客向けの宿泊施設に向かうために再度路面電車に乗ったサマンサは、流れる風景を横目に椎崎に聞いた内容について思いを馳せていた。
「私を含めて、私たちの大半は高次元マンションの事故によってこの世界に漂流したんです。えぇ、細かな点で異なるとは思いますが、この世界の高次元マンションと概ね同じものです。最初は基底次元に戻ってきただけだと思いましたよ。しかし実際は違いました。ヴェール崩壊後の歴史が大きく異なっているのです!具体的には、2001年のマンハッタン島のテロや、2015年にスペインで起きた神格存在出現事件、2017年の東京の超常災害といった大きな出来事から、社会の細かな文化体系まで違いました。それは私の住んでいた世界とこの世界だけではありません。私の世界は、あそこにいる彼の世界とも異なります。皆が似ているようで、異なる歴史を辿った世界からそれぞれ漂流してきているのです!」
異なる次元には、異なる因果流が流れる。サマンサは、彼らはきっと、次元の漂流中に塔による因果の操作が行われて世界の歴史が異なるものになった後に、こちらの世界に流れ着いたのだと予想した。であるから、彼らに流れる因果流は異なるものであったのだと、サマンサは納得した。
彼らの生きたライフ・ヒストリーは彼らの中にしかない。その彼らでさえ、この世界に流れ着いてからの歴史はいくらでも操作されるだろうし、おそらく既にされている。ギャングやヤクザに自身の生殺与奪の権を奪われることはあっても、自身の命の在り方そのものを他者に絶対的に操作され続けることはないだろう。サマンサはこの塔の恐ろしさを思い出して、身震いする。
「やぁ」
サマンサは突然後ろから話しかけられて声を出す。
「うわぁ!突然なんなんですか!」
振り向くと、反対側の席に人が座っていた。窓から指す光が、その人物の顔を塗りつぶしていたために、サマンサはその人相を確かめることはできなかった。
「おっと、すまないね。君のことをもっと知りたくて、見るにとどまらず声をかけることになってしまった」
サマンサは様々な可能性を考慮する。ただの変質者か、自身のファンか、それとも財団のエージェントか。
「……あなた誰ですか」
「何物でもない」
「はぁ?」
「他の言い方をすれば君と同じような存在だ。私もこの世界の因果の流れから外れている」
「……ッ!」
サマンサは席から飛びあがった。その時サマンサは犀賀が言っていたことを思い出す。サマンサ以外の塔による因果の改竄の効果を受けない存在の中に、「何物でもない」と呼ばれる実体が存在していることを。サマンサはその時初めて目の前の人物に流れる因果流が、この世界の因果流よりも強度が大きいことに気付く。
「驚かせてしまったね。ただ、Saigaである君のことが知りたくって」
電車が少し揺れる。広末サマンサがSaigaであることを知っているのはサマンサ本人と他のSaigaたちだけであったはずだった。
「どうして、そのことを」
「私は君のことを見ていただけだ。緋色の世界の終焉にいるひとりでいる君も、Saigaたちの実験に巻き込まれた君も、次元路の災害に巻き込まれた君も。ただ、そんな人生の繰り返しだなんていう人の身には有り余る苦行を耐えてまで何をしようとしてるのか、君の口から聞いてみたいと思ってこうやって君の前に現れたわけだけだ。まぁ、君の返答によっては将来的にそれを阻止する必要はあるけれど」
この目の前にいる人物は、かなり多くのことを知っているようであった。この回答によっては目の前の人物が自身と敵対することに繋がる可能性に気づいたサマンサは怖気付いた。しかし、心拍数の高まりを感じたサマンサは大きく深呼吸して正気を取り戻す。こんなことより緊張することは今まで何度だってあった。むしろ、こちらから情報を引き出してやろうと、ジャーナリストとしての矜持を取り戻す。Saigaではなく、恋昏崎ニュースエージェンシーの一人の記者として、胸を張って回答する。
「この塔が、この世界にどのような結末を見い出すのか、私には分かりません。なので、Saigaとして具体的にどうするべきかは決めていません。ただ一つ言えるのは、この世界の人類が前進を選択するように、私は前進することを止めるつもりはないということです」
「素晴らしい回答だ。君と君の下す決断に期待しているよ」
その時、アナウンスが中央エレベーターステーション駅にもうすぐ到着することを告げる。それに気をとられたサマンサが再度注目を「何物でもない」に戻すと、実体は最初からいなかったように跡形もなく消えていた。
サマンサは緊張がほどけ、ぐったりとする。太陽はすっかりと海の底に沈んだが、まだその残り香が残っていることが窓から見えた。サマンサはこれから行わなければならないことを考える。ホテルのチェックイン、今日の取材のまとめ、そして犀賀への連絡。脳内の電子手帳にそれらを書き込んだ。