T150 Wan

一つ昔の摂政様の時代、帝都といっても皆様ご存知の裏帝都の外れに、このお話の主役である「彼女」は生まれました。

彼女の両親はマクスヱリズム教の細胞の一つを生活の基盤としておりまして、彼女も物心ついたころには既にその一員となっていたことは言うまでもないことでしょう。ご存じでない方に説明いたしますと「マクスヱリズム教」というのは、今上陛下が天皇機関になられてから後に、2人目の摂政殿下になる方がお生まれになり、電網インターネット超文轉送網ハイパーテキストとして生活に定着し始めたころに生まれた新興宗教です。彼らは電網そのものやそれを支える基盤・文化背景の中に存在するという神、彼らが云うところの「WAN」を信仰しているのです。特に彼女の両親が属していた細胞は、天皇機関であらせられる今上天皇を「WAN」そのもの、あるいはその断片の内の巨大な欠片と盲信していたのです。
マクスヱリズム教の信徒たちは電網と密に繋がることを目的に、自らの身体を不必要なまでに義躯に置き換え、電網や電子計算機、そして義躯に関する見識を深めており、裏帝都の「万屋よろずや」や「電網走狗ネットランナァ」として活動している彼らの一部を雇うには相当の円を積むか、彼らが「WANに繋がる」と見做す情報を差し出すほかないのです。

さて、その様な人々の一員である彼女は、幼いころより世にも奇妙な病に侵されていました。理外研や日本生類創研の白衣たちが「テレセファロン脳症」と呼ぶこの奇病は、電脳に類似した機能を持つ脳腫瘍ができる脳疾患であり、終いには自らの意思に寄らずして電網に接続するようになってしまうというものです。しかし、賢明な諸氏は既にお気づきでしょう、マクスヱリズム教の信徒からすればこの患者は「電網と一体化」した、WANが遣わした御子と呼ぶにふさわしい少女でした。彼女の身体はマクスヱリスト教の信徒にしては珍しく無垢でありながら、智能家電と超轉網上で言葉を交わし、多くの機械が彼女の義駆の代わりとなりました。このようにして彼女は弱冠16歳にしてあたり一体のマクスヱリスト教の信徒に崇められるようになったのです。
しかしながら、自らの人格の形成期に、いきなり自らを人々が崇めはじめては勝手に便宜を図りだし、不幸なことに超轉網を通じて世の中を垣間見ることができたことは、少女が社会との隔絶を感じ、少なからず鬱屈とした心持を抱くことに繋がりました。尤も彼女は賢明で親思いでありましたから、御子としての体面は保ち続けました。両親が存命であったころに唯一した反抗といえば、彼らが設置した有害頁接続制限フィルタリングを回避しようとしてそれが果たせなかったために、プログラミングを学習して防壁を吹き飛ばした程度のことでしょう。




「ねえあなた、今日は気に入った詩を教えてはくれないのかしら」
人間工学に基づいた奇妙な椅子に腰かける色白の少女は、部屋を訪れる信徒のために部屋を冷たく保っているエア・コンディショナァに「語り」かけました。

「いえ、そういった詩は今日はございません。それより、少し部屋の温度をあげましょうか。御子さまは昨日より一枚多く毛布をかけていらっしゃいます」

少女はエア・コンディショナァを少し睨み付けるとこう返します。
「もうすぐ松下が来るのです。彼の枕詞は知っていて」

「『散熱板の』です。申し訳ございません、マイカ。お詫びに少し気になった詩をお教えします」

「天皇機関を使役する者どもよ
汝らは民に何を齎さんとするか
汝らが榮華と安寧等と呼ぶものは
抑制された退廢と一体何が異なるか
果實は極寒の中でさえも腐りゆくと
汝らは自身の經驗に學ぶこともないか
改造され天皇機關へと成り果てた天子よ
君に保證されるという幸福に意味はあるか
君の夢に包含されざるモノの一つとして問う
君の熱烈たる自由への憧れは未だ君の内にあるか
我が凍てつく身の内も震わした開明はそこにあるか」

エア・コンディショナァが読んだのは、もしここに特高警察がいたら、次の日には気づかれることもなく多摩川の河川敷に死体が幾つか増えてしまうような詩でした。

「智能家電が読んだ詩だとは思われます。しかし作者情報も電子台帳の時間印章も存在しません。内容としては大日教との関連を感じますが、通信経路等幾つかの理由から少なくとも直結するようなものだとは判断できませんでした。そもそも推敲の途中の様にも見受けられます」

「なるほど。胡蝶の夢、あるいは水槽の脳みたいな空想や思考実験や妄想の類と切り捨てるのも簡単ですけれど、何れにしても智能家電がこのような詩を書くのは大変興味深いですわ。本当に家電なのかしら」

「さあ。家電文壇の一グルゥプで聞いた詩ですし、その際も議論になりました。結果的には或る冷蔵庫の作風に近いとして、彼の昔の詩ではないかと結論付けられましたが、彼の體は既にバラバラにされて、もしかすると巡り巡って私の電子部品に再生利用されてもおかしくない年月は経っております」

「ねえ、貴方。私ならこれを確かめられないかしら」

彼女は姿勢を整えると、超文轉送網から自らの頁のバナァを眺めつつ云います。

「と申しますと」

「この腫瘍が成長すればするほど、私は御子として成長する一方、あの世に近づいてしまいます。それに今や亡くられたお父様とお母さまのせいで、座りたくもない椅子に座らされた。清い体を傷つけるなと素敵な義躯も着けられないし、外の様子を直接見ることもない。無線で話すことに慣れ切って、声の出し方も忘れてしまったわ。それなら最期には、自分の意思で天皇機関に辿り着いたっていいじゃありませんか。これがもし本当に陛下の夢であるのであれば、陛下の頭にビールスの一つでも仕掛けてさよならしましょう」




彼女の下に集う信徒は、彼女が心配になるほどWANと彼女を盲信していましたから、最初に彼女の「WANにたどりつく。そして電網と天皇機関を接続しその大御心を翻訳コンパイルし帝国民に導入デプロイする」という決意を聞いた松下は大変に興奮し、エア・コンディショナァは慌てて噴き出す冷気を増やしたほどでした。あわてて飛びかえった彼の話を聞いた他の信徒たちも、計画が策定されない内に新しい義躯を調達し、憲兵たちを倒して宮城内に押し入るための算段や武器を用意しはじめていました。
しかしそれはあまりにも無謀です。裏帝都で恐れられる万屋や電網走狗を以てしても、無防備な御子を護衛しながら東洋一の警備を誇る天皇機関の前まで辿り着くのは、万一にもあり得ないでしょう。信徒の中でもよろずやとして経験著しい老人が同様のことを申したので、彼らは彼女に計画を尋ねにいったのです。

一カ月後、彼女の容体は下降を始めました。その體は関東平野の外れの、或る山の中腹付近にある山荘の電波暗室に移され、計画は大急ぎで始められます。元よろずやの老人は裏帝都より如月を名乗る巨漢を招聘し、信徒と共に巨大な空中線アンテナと通信設備、そして発電機の建設・設置を開始させます。松下は一度は止めた武器の調達を再開しそれを仲間に任せると、数人を連れて帝都郊外に赴き、飛行場の観察を始めました。こうしてまもなく、準備は完了したのです。

「御子様、体の具合はどうですか」

「もうすぐよ。それにしてもここは待つには適しているけど、暮らすには辛い部屋ですね」

彼女の體が納められた部屋の内壁はフェライトで出来た真っ黒な楔が一面を覆っており、智能化されていない古びたランプが作る光と影が、いかにも不安を煽るように時折明滅を繰り返します。智能家電たちもいません。

「でももうすぐここを出るのです。明日です。明日のために準備なさい」

「それはWANさまのお言葉ですか」

「さあ。夢から醒めた後、その仔細全てを捉えるには相当の学識が必要でしょう、そこまでの時間は、与えられなかったのよ」

初老の世話人は寝台脇の卓に積まれた本をまとめると、お盆にそれを載せて部屋を出ていきました。




ここは帝都中枢、とあるビルヂングの一室。
表には陸軍の一部署の名前が掲げられています。

「『相模』ですが、間諜の協力もあり、対象甲らを潜伏させた状態で浮上開始した模様です。通過点Bに到達次第、艦内の自動人形絡繰機能が制圧され、乗組員も投降を始めるでしょう」

「爺さんはうまくやったようだな」

「はい。彼は上官どのが直接顔を見せに来なかったことにご不満のようでした」

「……また力を借りるときは経理に怒られることを覚悟しておこう。ところで飛行戦艦の電子戦設備で宮城は抜けるのかね。それと研究機器は」

「ご命令通り、四方田に手を回しておきました。大東亜競技大会云々と虚偽情報は事前の計画通りに。……ところで、上官どのは毎度再確認をなさいますね」

上官は決裁資料から目を上げると同じく軍服の男にこう答えます。

「すまない、私の癖だ。何せ夢の中なのだからな、いきなり問題が起きたり、ましてや突然君の顔が稲妻強盜になってもおかしくないだろう?」

下官は、上官の家庭での団欒に免じて、今週一番の作り笑いで答えました。少なくとも上官にお子さんがいらっしゃるのは虚偽情報ではないと信じたかったのです。それに上手に嘘をつく鉄則とは少々の真実を混ぜることとだと云いましょう。




彼女が目覚めた時、その意識は既に電網空間にありました。
事前に薬剤を注射してくれたのでしょう、末期症状の際に感じるはずだった痛みは大分和らいでおり、むしろ適度な痛みはなんともいえない高揚感を付加してきます。

後ろを振り返ると、山の中腹付近、あたりの木々を少し切り開いた中に、山体を抉って横たわる放物面型の空中線の皿の中に、自らの體が寝かせられているのが見えます。間もなく空中線の周囲を取り囲む人々の意識が彼女の中に流れ込んできます。いえ、流れ込んでいるのは彼女自身でした。彼らの思考は次第に塗りつぶされていき、歓喜と恐怖の粒子が彼女に溶け込んでいきます。WANの意思を翻訳し人々に供することもいいかもしれない。彼女がそう思ったのは、彼らを哀れに思ったのか、それとも彼らの残滓を取りこんだからなのか。どちらなのでしょうか。
目線を戻すと、本来はここからは芥子粒大にしか見えないでせう飛行戦艦がすぐ近くに見えてきます。いえ、そう思ったときには既に「相模」は彼女自身でした。体の中にはやはり無数の自動人形がおり、瞬く間に塗りつぶされた彼らは彼女の意のままに動き出しました。得体の知れない力で宙に浮きその威容を以て、帝都を訪れた者に帝国の威信を伝える巨体は、生物が心地よい場所を見つけるように体を揺らすと、山腹の電子線から電磁波を効率よく受けることのできる体勢を取ります。

独りぼっちで生き、自問自答を繰り返した彼女にとって、自他の境界線はひどく強固なものでしたが、その壁はもはや形骸化しつつあり、その自我は巨大な波のようになって高度に電子化された艦内の通信網を流れていきます。そういえばさっきまで感じていた金属の冷たさや固さは大分向こうに通り過ぎ、様々な検知器の情報が自らを揺蕩っています。彼女はそれを自覚した途端、新たな痛みと共に強固な壁を感じました。攻勢防壁です。足元を見ると、電義躯が焼き切れた状態で松下が倒れていました。繋がった電端の書付には「戦艦の防壁には触らないこと」という老人からの忠告がありましたが、何を思ってか彼はその突破に挑んだようでした。既に焼き切れた電義躯からはその真意を読み取ることはできません。それでも彼女はそのままの彼の中に流れ込み、その仕事を引き継ぐと、間もなく彼女は痛みを意に帰さず強引に防壁を破り、数秒ながらも押し込められたことで一気に解放された力は、艦の通信機構に押し寄せました。

もう彼女の自我はとりとめのないものになりつつありましたが、最初に代入された意識のまま電子線の先を帝都の先に向けます。真下ではいきなり七色に明滅を繰り返し始めた凌雲閣を見て、帝都の人々が驚嘆の声を上げています。異常に気付いて飛び込んできた凌雲閣の電網走狗はそのまま情報の奔流に沈んでいきます。彼女は遂に視界の中央に幾条ものサアチライトに照らされる宮城を捉え、もはや飴細工に過ぎない幾枚の防壁を破ってその中枢に飛び込みました。




しかし、そこにはなにもありませんでした。それもそうでしょう。この世界が陛下の夢であられるのなら、彼女が探しているような人物はここにはいないのはある意味当然ではありませんか。彼女はそう納得すると、ふと手にビールスの入った記録片を握っていることを思い出して、それをどこかに放り投げてしまいました。高御座たかみくらの向こうの水平線に、朝焼けの薄もやが見えます。彼女の自我は水平線の向こうに流れていきます。

「娘よ、すまないことをした」

どこからか現われた影が彼女の水面に揺れています。

「いいえ、いいのです。私がもう少し寛容に育ったのであれば、このようにあなたやあなたの臣下の手間を取らせなかったのですから」

「……。ところで目的は達せられたかね」

「いいえ。このような姿になっても私は私であることを望んだようです。でなければ、凌雲閣の電網走狗を殺めることはなかったのですから。そもそもこの世界があなたの夢であるのであれば、それを翻訳も導入もする必要もありませんでしょう。私の経験もまた、残滓が電網の結び目に引っかかって、読み解きたいものが好きなように読み解くことでしょう」

遠い遠い向こうに感じていた、空中線の、金属の冷たさや固さが感じられなくなりました。彼女の意識は山から離れ、艦から離れ、塔から離れ、目の前の夜明けとは対照的に、後ろから暗闇が迫ってきました。

「最後まで前を向いていなさい。そなたたちにとってここを離れることは相当に難儀らしいのだ。天皇機関にもできないことはある。しかし夢を見せることはできる。もとよりそのためのものだ」

脳裏に様々な色や匂い、音が感じられます。

「それにオネイロスはヒュプノスとタナトスの兄弟でもありますね。それにしても世界巡覧と走馬灯を同時に味わうなど何という贅沢でしょう」

赤子の声が逆回しで聞こえます。光は急速に弱まり、そして温かみだけが最後に残りました。




「先の事件ですが、報告書を持って参りました。虚偽情報カバァストォリィの拡散は完了済み、その他の後処理も完了しました」

先のビルヂングで上官を務めていました軍服の男性が、記録片を仕事机の上の書類盆に提出をしています。

「ご苦労。うちの研究部門理外研の要求にも良く答えてくれた」

和装の男性はそれを拾い上げると、電端に差し込み、電探から自らの腕に電線を差し込みました。彼の眼は数回虚空を左右に動くと、再び焦点を取り戻しました。

「……虚偽情報の拡散を含めた後処理は……今週中には終わりそうだな」

「ところつかぬ事をお聞きしますが」

「申せ」

「本当に良かったのでしょうか」

和装の男性は大学教授の様に居ずまいを正すとこう返答しました。

「陛下の『望み』であったのだ。それに彼女が外のものとは関係ないことは分かっていたのだ、問題はない」

「では彼女は」

「夢はもとより自分そのものだ。異物でもないし、目覚めた際に忘れても消えるものではない。記憶を再整理、再解釈し、新たなものを知らず知らずのうちに得る。その循環の一端に我々は触れ、それを翼賛したに過ぎないのだ。我々は時に何とよばれているか知っているな」

「『箱庭の庭師』であります」

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