私がまだ幼かった頃──正当な『蒐集院の巫女』になるべく育てられた、箱入り娘であった頃だ。まだ現役だった先代は身体が弱く、滅多に姿を見せることはなかった。私は愚鈍な役を『演じ』、自身が持つ才能を見せずに、ひたすら無言でいた。そんな私を無視し、あるいは聞こえても小さな子供には分かるはずがないという態度で──周りの大人たちがひそひそ話をしている。どのように私利私欲を満たし、快楽に浸るのか。また、どのようにしてその地位を奪い、のしあがるか。薄汚れた話題が渦巻くなかで、私は無言をつらぬいた。今思えばすがるものがなかったからかもしれない。周りの大人たちのように、汚濁に染まりたくなかったからかもしれない。ただ私は、与えられた使命を果たすことこそが、独り身の私にとって──ただ唯一、安息の場所かもしれなかったかもしれない。
『九頭龍』を用いた計画は順調に進んでいた。
気がついた時には全てが事終えていた。朝日に照らされ白く輝く浜辺に私はぼろぼろの状態でいた。緋袴は所々破けており、白衣は汚れ、長く整っていた黒髪はざんばらに乱れ、砂がまとわりついていた。『九頭龍』の制御──生贄となる『巫女』が私を助けたのかぐったりとした様子で私の近くに座っていた。
「水は吐かせましたよ」
「……お前は、何故平然としてられるんだ?」
『九頭龍』に全ての霊力を捧げたため、私は心身ともに疲弊していた。話す言葉も掠れており、何もかもが面倒だというように水平線の向こうを見ていることしかできなかった。無言で隣に座ってきた『巫女』に気がつき、私は焔のように吐き捨てた。
「少しは警戒したらどうだ。私はお前の友人を“九頭龍“復活のために殺し、生贄として捧げた、言わば殺人者だぞ? 肉食獣と2人きりでいることにまだ分からないのか?」
『九頭龍』復活のためには私一人の霊力(一般人では絞りカスのように小さいが)では足りず、『巫女』のクラスメイトであるものたちを異形の生物へと『改変』させ、霊魂──つまり神霊として『九頭龍』の養分としたのだ。神霊となったものたちは『依代』を失くし、世界を形成する『神々』となったはず。少なくとも『人』という存在ではなくなったはずだ。いわば殺したのも同然のことをしたのだ。それなのに何故この『巫女』は──。
「どうですかね……、私には分かりません。だって、私、あなたのこと、まだ知らないのですから」
その言葉にたいして私は半ばヤケクソに笑い、そして過去の遺物として忘れていた──言えなかった思いを全て『巫女』へぶちまけた。
「私はね、私は疲れたんだ、ずっと疲れて、だから世界を壊そうとして! 私には何もなかったから、蒐集院としてお前を補佐し、世界を守る以外に何もない。私のことを分かるはずがない! お前なんかに……、お前と私は対極の存在で、決して相容れない。共感なんてできるはずがない、お前と私は正反対であり、敵なのだ! このまま順調にいって、世界を創り変えて、この世界の現実を変えたら…….もう二度と、名前を呼ばれて、仲間と笑いあったり、仕事したり、手を繋いだりして、一緒に過ごすこともできない。独りになってしまう。そんな当たり前をむしろ望んでいたはずだったのに、怖くなった……」
あぁ、私は何を言っているんだ。『九頭龍』を用いた計画が瓦解して、ヤケになったのか。それとも今まで『演技』をしていたことに疲れていたのか──。
「羨ましいですね」
『巫女』の言葉に、私は目を丸くし、頭を掻きむしり、そのまま砂浜に倒れ込んだ。感情を整理できなくなり、情けなく泣いてしまった。
「お前は、変だよ」
「よく言われました」
「リュウグウノツカイの話をしましたね」
「……ああ、幼いころだな。リュウグウノツカイに食われて死にたいとか言い出して、マジで嫌だったのを覚えてる」
「今のあなたはリュウグウノツカイに見えます」
「お前は、変だよ」
「私たち、死んだんですかね」
「……それはない、"九頭竜"は現実に影響を与える存在だ。私が望んだのは物理的な崩壊ではなく、神秘的な崩壊。だからここはおそらく改変された世界だろう。龍の割れ目にそういった因子が詰まり、私たちを式に組み込んで発生したと考えられる。おそらくお前達の存在はそういった流動的な状態を固定する関数のようなものであり、正確な値を入れずに私という変数が入り込んだ結果、歪な結果が出力されたと考える」
歪に『改変』されてしまった世界、ここはもう私が生きた世界ではなくなった。周りの大人たちの汚濁に染まらぬように必死で『演技』をしていた過去の記憶とともに因果の向こうへと消えたのかもしれない──。『巫女』は続けてこう言った。
「海の底には理想郷があると聞いたことがあります」
「典型的な異界信仰だな。竜宮、蓬莱、サルガッソー、ニライカナイ」
「なら、私たちも生きていけるんじゃないですか?」
その言葉に私は「はっ」と顔をあげ、『巫女』の方へと向き直った。泣いて腫れた目を隠すように強くこすり、人間とはじめて心を交わした動物のように、距離を置こうとするような不器用な言葉を私は繰りかえした。
「私は、お前と決して相容れない」
「それでいいんじゃないですか? 私たちは結局前の世界で世界を滅ぼしかけた共犯者なんですし、いっそ姉妹ということにでもして生きていきましょうよ」
『共犯者』か、『演技』をしていた私にはとっておきの言葉だ。
「……まあ、どこででも生きてはいけるか、お前と姉妹ってのはお断りだがな」
「『お姉ちゃん』は、意地っぱりだなぁ」
夕陽が打ち上げられた私達の姿を照らす。
リュウグウノツカイになる夢をみた、深海の理想郷を泳ぐ夢を。海の果てで、自由に泳ぐ夢を。
──その背びれには私から離れないようにしっかりと握っている誰かがいた。