「ゔっ」
腹の底から込み上げてきた嫌悪感を、吐き気と共に体外へ押し出す。無機質な監視室に充満する酸い匂いが鼻の奥を突き刺していく。涙で滲んだ視界が眩み、また吐きそうになる。腹の中に棲みつく気持ち悪さを押さえ込みながら、ふらふらとした足取りで立ち上がった。
備え付けのゴミ箱と持参したゴミ箱の中身はエチケット袋で満たされている。テーブルに手を付きながら、乱れた呼吸を整える。
そうしていると、背後でドアが開く音がした。
「相変わらずだな。お前も、この部屋も」
先輩の声が部屋に響く。決して高いわけではないその声も、今の自分には金切り声のように響いて聞こえる。いつも以上に重く感じる頭を押さえながら、僕は声を振り絞った。
「……お疲れ様、です」
「はいお疲れ様。後は俺がやるからさ、もう下がってていいよ」
そういった先輩に会釈をして、監視室を後にする。ふらついた足取りがいつも以上に重く感じた。
処置室から少し離れた通路にて。
先輩を待っている間、僕はカメラ越しに見た彼女の顔を思い浮かべていた。ぐちゃぐちゃに顔を歪めた彼女の顔が次々とフラッシュバックしていく。心苦しさを覚えた僕は、ぶんぶんと頭を振って、浮かび上がるイメージをかき消した。
これは自分の使命で、世界を守るためにも成し遂げないといけないことなのだ。何度も自分に言い聞かせていく。それでも、僕はこの行為を許容する気にはなれなかった。殺人鬼にでもなれば楽なのだろうか。そう考えながら、時計に目をやる。
時刻は午後7時。処置が終わるまで、あと30分もある。
──彼女はまだ苦痛の中にいるのだろうか。
ふと考えてしまう。苦しむ彼女の顔が再び浮かび上がってくる。助けを求める目つきが僕の心を突き刺していく。気持ち悪さが込み上げて、その場にうずくまる。
……また吐きそうになった。
「はあ……」
サイト内ラウンジ備え付けの椅子に座りながら、深いため息をついた。心の中に溜まった暗い感情を、ため息と共に吐き出していく。しかし、どれだけ息を吐いても心が軽くなることはなかった。
正直言って、今の仕事は嫌いだ。世界を守るためとはいえ、幼い少女を痛めつけるのは気分が悪い。処置の最中の彼女の顔や声が脳裏に焼き付いている。助けて欲しいという絶叫が僕の心を締め付けていく。
──本当に、痛めつける必要があるのだろうか。
ぼそりと呟いた。そうして項垂れていると、頭上から聞き慣れた声が聞こえてきた。それに反応して顔を上げると、そこには先輩がいた。
「どうした? 調子悪そうな顔して」
「その……考え事してて……」
「ふーん」
先輩が僕の隣に腰掛ける。「飲め」と言わんばかりに差し出された缶コーヒーを受け取る。それでも飲む気にはなれなかったから、手に持ったままそれを見つめていた。そんな僕を見た先輩が声をかけてくる。
「飲まないのか」
「ちょっと、飲む気になれなくて」
「そうか」
少しの間。お互いに喋らない。沈黙だけがそこにある。
「お前が何考えてるか、当ててやろうか?」
「わかるんですか」
「ああ勿論だとも。モントーク処置のことだろ?」
先輩が言う。思わず声が漏れてしまった。なんで分かった。態度に現れていたのか?
「その反応は正解だな」
「……なんで分かったんですか」
「簡単だ。お前、いつも処置の時に吐いてるだろ。だからだ」
「……そう、ですか」
弱々しい声で話す僕に対し、先輩は続けて言う。
「必要ならどんなに非人道的なことでもやる。それが財団だ」
「わかってます」
「でも、それは実行者の精神が健常を維持することを意味しない」
先輩は缶コーヒーを一気に飲み干した。空き缶の上を指で掴み、ふらふらと揺らしてみせる。
「俺達だって人間だ。迷うことも立ち止まることもある。悩んで、苦しんで、お前みたいに吐くやつだっていっぱいいる」
空き缶を椅子の上に置く。先輩は椅子から立ち上がり、そのまま歩き出した。
「必要なら辞めるのも手だ」
「辞めるって……いいんですかそんな」
「ああ。お前を含む財団職員の手は確かに汚れている。だが、それでも救いを掴む権利はある」
僕は先輩の背中を見ていた。段々と遠ざかっていく。
「その缶はお前が捨てろ。俺は監視室に戻る」
そう言って、その場には俺と空き缶だけが残された。
結論から言うと、僕は彼女の担当を降りた。
これ以上続けても苦しむだけで、どうやっても辛いままだったから。身勝手な理由でもあるが、これも自分を守るためだ。僕だって人間なんだから、少しくらいは逃げてもいいだろう。
あれから先輩とは会っていない。恐らく、彼は今もなお監視室に留まり続けているだろう。辛くないのかと思ったが、思考するだけ無駄だと思い至った。人間であるならば、思考も異なっていて当然だし、その全てを読み取ることはできない。彼は彼なりに信念を持って処置を実施するのだろう。
今日は記憶処理を受けに行く。これまでの辛いこと全てを忘れて、別の業務に割り当てられる。もうエチケット袋を使う必要もない。彼女の幻影に囚われることもない。解放されるのだ。
それでも、何故だろう。少しばかり、名残惜しいのだ。
追放鯖ジャムコンテストに参加します。苦痛からの解放です。
2023年に投稿して削除された記事のリメイクです。









