白い花、瞳の星

この物語は、関係者からの聞き取りを元に再編集されたフィクションです。一部事実と異なる点がございますことをご了承ください。

◇◇◇


夜食の入ったマグカップを手に進捗を訪ねにやってきた彼女の担当編集者は、寮の扉を開けてすぐに、
「あ、そこ置いておいてください」
という彼女のすげない言葉に苦笑いをこぼすことになった。眼鏡の奥の瞳は真剣に、原稿用紙のマスを睨んでいる。彼女がアナログ派なのは相変わらずだ。安価かつそのままデジタルに変換できるので、購買で安く売っている原稿用紙を使っている著者娘は彼女の他にもいる。

あ、ああ

「あと、私がこの部屋から出てくるまで一人にしてください。書けたら連絡します」

分かった

「当社比ですけど、しばらくかかりそうなので」

当社比ではなくないか、とは言えなかった。この状態の彼女に下手に口を挟むととんでもないことになるのを、編集者は既に知っている。原稿用紙に文字を書きつける小さな音の邪魔にならないように、そっと部屋の扉を閉めた。

……

正直、安心した

夜食のコーンスープはこの分だと一滴も飲まれないかもしれない。自分の分の少し冷めたコーヒーを飲みながら、ぼんやりと考える。
彼女が今書いているのは、廊下の掲示板で見かけた個人コンテストのための作品だった。学園全体で行われる大規模なお祭り、所謂公式で開催されるコンテストから、寮の一部屋を借りて非公式で行われるコンテストまで。規模は違えど、砂箱学園では時折このような取り組みが行われている。
処女作がきっかけで知り合った著者娘のコンテストに出すアイデアがない、と告知を見ながらぼやいていたことを知っている。最近上手く書けていますか、とそれとなく聞いてきたことも。夕焼けを見つめる横顔がどこか遠く見えたことも。一発屋にだけはなりたくない、と一人で怯えていたことも。

書けてるんだから、大丈夫だよな

言葉にするとそれはどこか無責任で、白い息になって夜の空気に溶けていった。窓の外の暗闇は冷えて、冬の寒さを廊下の木目に伝える。彼女の担当になってから、既に半年が過ぎていた。

◇◇◇


彼女が部屋の扉を開けたのは、翌日の早朝のことだった。真っ白な長袖と暗い青緑のショートベスト、グレーのズボンという執筆時のいつもの服装の上に、分厚い生成のカーディガンを羽織っている。疲れが頬をさらに白く見せていたが、眼鏡の奥の蛍石の瞳はきらきらと輝いている。熱と不安。表裏一体のそれは、何かを書き上げた時の証だ。
「……どうぞ」
恐る恐る渡された原稿用紙をめくる。ゆっくりと、確かに。段々とそのペースが早くなっていく。目の前の著者娘のことは忘れて、脳に物語が染み込む感覚に任せる。
顔を上げると、視界の遠くに舞い散る雪が見えた。紡がれた言葉が見せた、陽炎のような物語の幻影だった。澄んだ冬の朝によく似合う物語だった。

いいんじゃないか

「……本当に?」

口からこぼれた言葉に、彼女が食いついた。何かを書き上げた時の彼女は三点リーダが増える。自信のなさと、それでも聞きたいという好奇心のようなものの、相反する感情の表れなのかもしれない。

とにかく、まずは出してみよう

「批評、来ますかね」

大丈夫

不安げな彼女への明るい返答に、全く根拠がない訳ではなかった。今回彼女が書き上げたのは、根強いファンの多いカノン所属作品だ。特殊な設定故に自由度は高く、また通常とは違った魅力を要求される。待ち望んでいる人はこの学園のどこかに必ずいるはずだ。

あとはやっておくから、もう寝た方がいい

ぎくり、と彼女が目を逸らす。その反応が何よりの証拠だ。目の下にはうっすらと灰色の隈が浮かび、原稿用紙を渡された手はいつもより暖かかった。冷え性な彼女はこの時期いつも冷たい両手を擦り合わせているというのに。

寝てないんだろ?

「はい……」

まずはしっかり睡眠取ろう。夜食は廊下に出しといてくれたら捨てておくから

「はーい……いや、飲みますよ!?確かにまだ、飲めてないけど……もったいないんで……」
ごにょごにょと口ごもる彼女に思わず首を傾げる。最後の方は消え入りそうなボリュームで、ほとんど聞き取れなかった。

「とにかく、お願いしますね、ほんと……」
ぐいぐいと廊下側に押し出すようにしてから、彼女は部屋に戻っていく。寝付きが悪い彼女のことだから、昼になっても布団の中で眠れないでいるかもしれない。手続きが終わったら様子を見に来ることにしよう、と決める。

はいはい、おやすみなさい

「……おやすみ、なさい」
ぼそりと呟いて、彼女は部屋の扉を閉めた。続いて、鍵を閉めるかちゃりという音が微かに聞こえてくる。ここからはプライベートの時間だ。少しでも寝られるといい。
著者娘というのはとにかく無茶をしがちな生き物だ。彼女のように徹夜での執筆に始まり、著作のリサーチを名目にした色々な意味で危ない行為、学園内でのはっちゃけ具合など。健康の優先順位が低いと言えばいいのだろうか。
他の著者娘のことは分からないが、担当している彼女には健康であって欲しいと思う。健やかに長く書いて、息づいてくれたら。

さて、仕事だな

似合わないセンチメンタルを打ち切るように、ごく小さく呟いて歩き出す。ふと窓の外を見ると、橙のグラデーションが淡い青へと変わりつつあるところだった。やることは多いが、幸いまだ朝は早い。朝焼けから廊下に投げかけられた、澄んだ光が綺麗だった。

◇◇◇

起きてる?

「……あ、はい、今起きました……」
諸々の手続きを済ませて次に彼女の部屋を訪れた時、窓の外は既に夕焼けのオレンジに染まりきっていた。昼にノックをした時は返事すらなかったので、その時は多分寝ていたのだろう。
少し待つ。何かが擦れるような音と靴音がした後、遠慮がちに鍵が開いた。

素直でよろしい

「何か、あったんですか?」
西日が差す暗い部屋の中からのっそりと彼女が出てきた。髪はほつれて、結び目もゆるい。虹彩はぼんやりと丸まっていて声も小さい。まだ寝ぼけているようだ。タブレットを出して、画面を彼女に見せる。これを見ればきっと眠気も吹き飛ぶだろう。何せ、これを見せるために来たのだから。

批評、来てるぞ

「えー、あっ、はい……えっ?」
ぼんやりと生返事をした後に、彼女の声がはっきりとしたものに変わった。画面とこちらの顔を何度か見比べて、それからひったくるようにしてタブレットを手に取る。ブルーライトが照らす瞳ははっきりと目覚めていた。きらきらと星のような光が宿る。
「あのこれ、返します」
彼女が押しつけるように渡してきたタブレットを慌てて回収する。声にもしっかりとした光が宿っていた。
「……多分また、しばらく会えなくなると思います」

知ってる

ご飯、ちゃんと食べるんだぞ

「善処します……合鍵で開けて部屋に置いておいてくれたら、息抜きにでも食べます」

息抜きじゃなくて食事として……って言っても、まぁやめられないんだろうな

「すみません……あの、じゃあ行きますね」

ああ、頑張れよ

はい、という言葉だけを残してゆっくりと扉が閉まる。彼女の口元は、確かに笑顔の形を描いていた。窓の外はいつの間にか忍び寄っていた夜と冬の冷気に染まって、こっくりと黒く暮れていた。星は、見当たらなかった。

◇◇◇


次に彼女に会ったのは、それから二日後のことだった。
といっても直接ではない。著者娘たちがよく利用する学園専用のSNSだと彼女が話しているのを聞いて、連絡するならこれを使ってほしい、とダウンロードを勧められたのだ。今どきなシステムだなぁと思いながらスピーカーのボタンを押す。よく知っている彼女の声が、少し違う響きで聞こえてくる。
『はい、はい、その……だから、扉の描写が……』
彼女の声は弾んでいた。周りの反応が見えやすいのもあるのだろう。少しの間に増えていた批評と取っ組み合う楽しそうな様子が目に見えるようだ。
『……あ、こんな時間だ……じゃあ、ありがとうございました』
終わったことを表す機械音が、先程まで聞こえていた声とのギャップで少し大きく聞こえる。彼女の声のぼんやりとした余韻が、耳の辺りに漂っていた。

◇◇◇


それから、しばらくして。最強の大会、と書かれたポスターを眺めながら、二人は廊下に並んでいた。昼の光に照らされて、ポスターは誇らしげに文字を廊下に向けて掲げている。参加作品の一覧の中に、少し長いタイトル。初雪のような響きの文字を見つけて、彼女はゆっくりと微笑んだ。
今日の彼女は眼鏡を外した正装だ。三つ編みにした白い繭のような髪を肩からたらし、残りは後ろでやはり三つ編みにまとめている。頭上をカチューシャのように彩る編み込みは、長い右の前髪の近くで白い花のように変わっていた。青いスカートには波打つようなフリルが連なり、裾まで伸びている。
白と青をベースにした、著者娘としての装い。頭の上にあしらわれた白い花と、インナーに光る星。雪のような色合いのフリルと、浮かび上がる空色の模様。それらがまとう優しげな眼差しと静謐な空気は、彼女の作品に漂う空気感にも少し似ていたかもしれない。

どうだ?

「……まだ、分からないです。色んなことが。こんなに長い話を書いたのも、名前がある主人公も多分初めてなので」
それから自分の声に答えて、ふっと真顔になる。淡々と語るさまから、それは真実なのだろうと思った。
「でも、手応えはあります」
確かな声だった。やりきった、というような。それを後押しするように、昼休みの開始を告げるチャイムが高らかに鳴り響く。もう少ししたらこの場所は学生……著者娘たちが行き交う、色とりどりの絵の具を詰め込んだパレットのような昼休みの廊下になるのだろう。

もうこんな時間か……

「久しぶりに、食べに行きませんか?食堂でもどこでも」
そういえば彼女はご飯が好きなのだった。美味しいものを食べること、温泉に浸かること。彼女の気晴らしはどちらもここ最近ご無沙汰だったな、と思い出す。

そうだな。何が食べたい?

彼女は少し考え込んで、それから瞳を悪戯っぽく輝かせた。何かいい事を思いついたとでもいいたげに自分のスーツの裾を引っ張って、子どものようににかり、と笑った。

「編集者さんの、食べたいものを。息抜きじゃなくて、ちゃんと美味しいって集中して食べるような、そんな食事がしたいです」

特に明記しない限り、このページのコンテンツは次のライセンスの下にあります: Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 License