20201126 2
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    西暦二〇一三年 九月三日

     始まりはいつも夜だった。「始まり」という言葉がこの状態を表すのに適切かどうかを知ることはできないが、とにかく夜にいつも始まるのだ。サイト-8115付属の大図書館「天ノ川」はその名の通りに、夜には天井に魔法の城のように天の川がちりばめられるのだ。すべてが地下にあるこのサイトにおいて、大図書館は知を集める場だけではなく、同時に気が安らぐ場でもあるのである。いつもならば数人の職員が各々の方法で気を休めているのだが、この日に限ってはほのかに星の照らすこの場に人の気配はなかった。前任の司書が定年退職してから、その穴を埋めるようにしてここに配置された彼女は、ただ一人かすれた墨汁のような空を見上げていた。どこからか、踏切の音がしたような気がした。

    「……どこだっけ」

     品質の悪い消しゴムで無理に擦ったような記憶のみが彼女の頭蓋には貼りついていたのだ。茹だるような夏。渋谷のスクランブル交差点。静寂。踏切のFとF#の音。蒸し器に放り込まれたかと錯覚するほど暑いコンバットスーツ。断末魔。本来これらが持つべき意味は別のおぞましい何かにすり替えられてしまった。自身の記憶喪失に説明をつけるために、いくらか読み漁った精神分析の本にもそう書いてあった。

    「次は、どこだっけ?」

     まるで何者かに言わされているかのような錯覚を得て、彼女の意識は再び下の方へともぐりこんだ。

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      西暦二〇一三年 九月四日

       押しつけがましいほどに暑かった夏は終わりに近づき、熱気はしぼんだ風船のように抜けていった。応神薙の父である風路氏が谷崎翔一と薙の住居に送って寄越した大太刀「獅子斬」をつぶさに調べている谷崎翔一の目を獅子斬の側から見たら、谷崎から見た獅子斬と同じく瞳孔の筋が一本一本見えるほどに拡大されて、なおかつ好奇心に突き動かされてせわしなく動いていることだろう。暗い木目調の机に乗せられた大太刀に覆いかぶさるようにして背中を曲げている谷崎翔一を見かねて、応神薙がようやく口を開く。

      「その辺にしてくれないか。まさか爆発するってわけでもあるまいし」

      「でもこれで斬られた土蜘蛛のたぐいが爆発したって同封された文献には書いてあったぜ」

       人々が扱う神秘の力は、手のひらや足の裏など、肉体の末端部から一番よく放出される。長い年月をもって研鑽された応神家直伝の流派たる烏羽二神流は、その斬撃の動作に怪異封印のための舞踊の動きが組み込まれ、その呼吸法を口内での魔方陣生成のための詠唱の代わりとしているのだ。

      「その辺にしてくれないか?今日が二月報告の日だって忘れているわけじゃあるまいな」

      「二月報告?」

       谷崎翔一は声の調子だけまるで試験前に慌てて要点を聞く学生のようにして、微動だにせずにとぼけた様子で聞く。二月報告とは、二か月に一度現場職のエージェントが所属サイトに集まってある種の情報交換や報告会などを行う場だ。この二人も、必要性に疑問を感じながらも珍しいことにおとなしく制度に組み込まれていた。

      「知ってるだろ。とっとと8115にいくぞ。アイランズは遅刻にうるさいんだ」

      「……8115?」

      「時間稼ぎはよせ」

       その言葉が終わるや否や、谷崎は虫眼鏡をその辺に放り、獅子斬を鞘に納めて、応神薙に虫取り網でも取り扱っているかのように投げて渡した。一日はまだ始まったばかりなのだ。年中似たような服装を着ている二人の着替えは速かった。刀を腰に二本、背中に一本で合計三本差している応神薙はその体格も相まって歴戦の戦士といった風格だ。それとは逆に、谷崎翔一はどこにでもいるような格好で、注目しなければ特徴がないように見える顔も手助けして、本当にどこにでもいるような人間になっていた。

       バスと数本の電車と一本の真空チューブ列車 その名をハイ・スピード・チューブという  を乗り継げば、おおよそ一時間ほどでサイト-8115に到着する。このサイトには異常なオブジェクトは基本的に保管されておらず、財団職員のための情報交換やオフレコの会談のため、あるいは併設されている大図書館「天ノ川」に保管されている大量の本や論文の束などを閲覧したりするためのものだった。いくらネットの驚くべき発達により電子書籍へのアクセスがより簡単になったとは言えども、紙の本というのはそこに存在していることに意味があるのだ。


       サイト-8115にかかわる冗談の一つとして、かけられた予算の120%が大図書館に割かれたというものがある。本来ならば犬も食わないようなつまらない冗談なのだが、実際にサイトに一足踏み入れてみれば、果たして本当にこれが冗談なのか気になってくるというものだ。時折点滅する蛍光灯に薄暗く照らされたコンクリートむき出しの廊下の壁には扉がいくつか埋まっていて、その向こうには厳密に規格化された部屋があるのだ。廊下の一方はまるで包丁で切られたかのように唐突に終わっているものの、もう一方には周りと全く調和していない大木削り出しといった風格の扉がある。これこそが、「天ノ川」への入り口だ。

       二月報告のための書類はずいぶん前に書きあがっていた。ここのところ応神薙と谷崎翔一はコンビ状態で活動していたので、実質的な作業量は単独で活動している者たちに比べて半分ほどに済んだのだ。二人は奇蹄病が引き起こしたあの事件に始まり、競泳水着が多大な仕事をした事件、マウスとネズミが入り混じって混迷を極めた事件など、様々な事件の記録を手早く担当者に提出した。ふと時計を見てみると、アイランズとの約束の時間まであと二分となっていた。書類提出の部屋のちょうど二つ向こうにアイランズ調停官がいるはずだ。

       取っ手に指紋認証装置が仕込まれているドアを開けてみると、中には上等そうなウイスキーの瓶とグラスを三つ机の上にさも当然のように用意したアイランズ調停官がいた。面長で多少頬骨が出ており、整いすぎているほどにまで整っている彼の顔には酒気は見られなかったが、これから帯びることになるのだろう。

      「や、待ってましたよ」

       癖っ毛をわずかに揺らして彼が手を振ると、彼の向かいの二つの椅子が自動的にひかれる。そこに座れということなのだろう。奇妙な座り心地の椅子に四苦八苦しながらなんとか尻を固定していると、目の前に滑るようにグラスがやって来た。

      「なあ、アイランズよ。このタコの背中みたいな座り心地の椅子はどうにかならないのか?」

      「慣れれば意外と悪くないですよ。ひんやりしてて」

      「それに、いいのか?仕事中に酒なんて」

       アイランズは見せつけるように琥珀色の液体を飲み干し、軽快な音を立ててグラスを机に叩きつけるようにして置く。その一連の動作は武術の達人も驚くほどに滑らかだった。

      「いいんです、今日は休みだから」

      「正確には『休みだったのに急に仕事が入ってしまったのでやけ酒をしている』でしょう?こんなに上等なものをやけ酒できるなんて、うらやましい限りですよ」

       谷崎が皮肉を多分に込めて言い放つ。しかし、その口調に棘はなく、旧来の友人に語り掛けるようだった。何かを察した様子の応神薙は指で何らかの図柄を作ってから刀の柄を叩いた。光の流れがアイランズに入り込む。よく見てみれば彼の顔色は少しよくなったようだ。

      「貴方たちを呼んだのはほかでもありません。面白そうな事件が 

      「なにっ。それは本当ですか?最近は平和で暇で仕方なかったんです」

       谷崎はグラスの中のウイスキーを飲み干し、まるで新しいおもちゃを見つけた幼子のようにして机に体を乗り上げ、半ば叫ぶようにして言った。彼の目は新しい星のようにきらきらとしている。さらにその口には純粋な笑みが浮かんでいた。

      「……そう興奮しないでください、谷崎。特事課の連中と異常事件の捜査権周りでもめたときにたまたま貴方たちのことが話題に上がりましてね。こちらとしては公的な捜査権が欲しいわけですから、粘りに粘ってみたら、先方が折れてくれて、信じられないくらいに横柄な態度でしたけど、何やら事件のデータをくれたんです。要求したら資料は快くもらえると思いますよ。まあ、口ぶりからして彼らはもう彼らなりの結論を持っているみたいですけどね」

      「では事件解決の場からは是非とも彼らを締め出しておいてくれ」

       同様に興奮している様子のアイランズは思い出したように折り畳み式のパソコンを取り出してPDFを谷崎のメールに送る。資料にざっと目を通している谷崎は数瞬の逡巡を経て、椅子の背にかけておいたパーカーを引っ掴んでどこかに行ってしまった。

       ともかく、とアイランズは手を叩いた。反響した音波が何度か応神薙の耳を叩いたかのように思った。つまりそこには、後ろまで詰まったような静寂があったのだ。どこか気まずくなった様子のアイランズは叩いた手をそのままにして、ドアのほうに目を向けた。谷崎は元気なようですね。彼は皮肉気にそう言った。

      「それと、『天ノ川』は一度見とくべきですよ。ぎすぎすした精神がいくらかは落ち着きます」


       「天ノ川」は大図書館の名に恥じない大きさを持っていた。少し重さを感じる扉を開けて最初に感じたのは、高い天井に対する驚きでも高い本棚に対する感動でもなかった。少し押しつけがましいとすら感じる紙の匂いだ。遊園地によくあるような鉄の棒を回すタイプのゲートを通り抜けて、圧倒されたかのようにあたりを見回していると、本多なの隙間から草原を模したエリアに一人座って本を読んでいる一つの人影が見えた。応神薙はそれが司書だろうとあたりをつけて、そこに向けて歩み寄る。

      「やあ、お初さんだね。どんな本を借りに来たのかな?それとも、読み聞かせかい?」

       ちりん、と鈴を鳴らすような声だった。彼女はワルツでも踊るかのように軽やかと、まるであたりの壁が吸音材でできているかと錯覚するほどに静かに、ぬるりと意識に滑り込むかのように応神薙に近づいた。腰ほどまである黒い髪がふわりと広がり、花のような芳香が鼻をくすぐる。女性としては身長が高く、応神薙より10センチばかり低いほどだ。左目が眼帯で隠されている隻眼ゆえに、残ったほうの目は思うよりより力強く、彼を少したじろがせるほどだった。

      「ああいや、どちらでもないな。ここのことはあまりにも噂に聞くもんで、少し見に来ただけだ。ところでその身のこなし、何かの武の達人とお見受けした。ぜひ 

      「何を言ってるんだい?話すことは何もないぜ。武術なんてやったこともない」

       少し返し棘がついたような声だった。ウニの棘が刺さったら棘が粉々になるまで叩いてから取り除くというが、そういうたぐいの声だった。何かあるに違いない。しかし、ここでそれを探るのは少しも得策ではないのだ。粘っこいインクのような空気を少し吸い込む。

      「それは 失礼。お名前は?おれは応神薙だ」

      「……天月千春。好きに見てってね。本の配置は覚えてるから、探したいのがあったらぼくに聞いてくれ」

       応神薙が差し出した手を握ることなく、彼女は背を向けてまた最初にいた場所に戻った。少し異国情緒のあるツイルのゆったりとしたズボンがどことなく印象的だった。結局本を借りるといったことはなく、気まずさを少し残して、応神薙は住処に帰ることにした。


       キアッパ・ライノをぐるぐる回している谷崎は、ぶちまけられたスライムのように一人掛けソファに貼りついていた。検証がなかなかうまく行っていないようだ。ソファの横の丸テーブルには五個のカップケーキが置かれていて、同じだけの包み紙が丸められていた。

      「なあ、大丈夫か?」

      「大いに丈夫だ」

       ばね機械のように彼は立ち上がり、リボルバーをさらに激しく回してから腰のホルスターに入れる。裁判で証拠書類を突きつけるように応神薙に見せた書類の中で一番目立っているのは、やはり全体的に赤黒い写真だろう。被害者の背中にはひとつ袈裟に切られたような傷が目立ち、その周りには激しい打撲痕が残っていた。どう見てもこれが致命傷だ。

      「いいかい。ここには『切れ味の悪い刃物で切られたにしても不自然な、内側から噛み千切ったような傷跡』があるんだ。この調書そのまんまの描写だよ。まったくもって意味不明さ。特事課にいたころの趣味で過去の事件はざっと覚えているつもりなんだが、これには先例が……思い当たらない」

      「うへえ、こりゃひでえ」

       ほかにもいくつか、様々の方法で死に至らされたと思われる死体の、ある種鮮烈な写真が何枚も提示される。アナフィラキシーショックで死に至ったと思われる、全身に「噛み跡」のようなものがある死体。額に大穴が空いている死体。一つ一つの状況を細かく説明するならばB級ホラー映画もかくやといったところだが、一つ一つの書類にまとめられたそれらはどこまでも無機的だった。

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         多々ある技術のうち、情報をつかさどると言っても過言ではない半導体技術の発展は目まぐるしかった。財団と連合が独自に持っていた技術は多々あれど、そのなかでひときわ優れていたのが観測のための技術である。異常存在を素早く探知し、性質を解明し、程度と方法の差はあれど、その異常性を組織内に還元する彼らの裏打ちともいえる技術だ。多くの民間企業に惜しみなく提供された技術の効果は、二文字で表すならば絶大だった。これは世界トップ級の頭脳たちを大いに刺激した。本来踏むべき階段を何段も飛ばし、文字通り競ってプロセスルールの微細化が行われたのである。ある学者の試算によると、飛ばした年月は30年を下らないそうだ。

         応神薙と谷崎翔一は、各々の情報端末とにらめっこをしていた。ディスプレイという概念はすでに過去のものになってしまった。部屋の中を文字通り情報の塊が飛び、手でつかんで精査する様は、神格降臨事件がもたらした良いもののうちの一つだった。

        「情報が多すぎるのも考えものだし、少なすぎるのも考えものだよ」

         情報のハビタブルゾーンは思いのほか狭いようである。情報が多すぎるときには、どの情報がどの役割を果たし、本筋と関係のない情報に関しては切り捨てていく必要がある。反対に少なすぎる時には、情報の役割を最大限重視して分析しなければならないのである。どんなに複雑に絡み合っているように見える物でも、必ず情報に分解できる、とは谷崎の論だ。

        「例えば橋本小百合29歳。例の破かれた方だね。彼女は家族三人暮らしで、夫とは二年前に死別。娘二人と一緒に寝ていた時にやられたそうだ。これをもし人間の仕業だと考えると、ホシは被害者を一切騒がせず、また一緒に寝ていた娘二人にも気取られずにこれを成し遂げたことになる。そんなのあってたまるかという話だし、たとえこれが呪いだとしても穴は二つじゃ足らないだろうね」

        「そうだな」

         話半分といった様子の応神薙は情報の塊を谷崎に投げてよこした。便利になったものだな。谷崎はそう嘆息し、文字通り丸まった紙を開くようにして内容を見る。そこには「都市伝説」とでかでかと書かれていた。数秒の逡巡の後、谷崎が口を開く直前に応神薙が彼の意見を述べた。

        「匿名掲示板でオカルトや都市伝説を語り合う場所だ」

        「……民間信仰、八百万の神々の復権かい?確かに、あり得なくはないな」

         盆に乗った鉄球を転がすような声だ。応神薙は首肯をもって返事とした。ならば、これでいろいろ考えてみようじゃないか。谷崎は挑戦的な笑みを浮かべると、再び情報の選定に戻った。

        「いつも情報が足りないときには推測をしないと言ってたな。でも今回は推測で動くしかない」

        「……そう、だ。まったくもってそうだ」

         珍しく意見が一致したようだ。谷崎は閲覧している情報タブをすべて閉じ、驚くほどの速度で一人掛けソファに収納された。応神薙は呆れたように谷崎に向かい合う位置に腰を下ろした。

        「では、まずは意味を考えてみよう」

         万年筆を手癖で回しながら谷崎が、澄まし汁に踊るにんじんのような声で言った。最初からそこにいたと静かに、しかし盛大に主張しているような態度だった。彼はいつも人を食ったような態度で物事をいつの間にかに進めてしまうのだ。

        「台風が雨を降らせるのに意味があるのか?」

        「ああ、ない。だがなぜ雨が降るのかはわかるんだ」

        「……もののけは存在するから人を怖がらせる」

         彼らにとっての死とは忘れ去られることだ。過去から現在にかけて一貫していることがある。その方法は変われど、もののけは忘れ去られないために人々を怖がらせるのだ。それは神であろうと基本的には変わらない。人間は神に祈り、神の存在は人間に大きく依存しているのだ。

        「変わったものだよ。まったくのトートロジーだね」

         犬が自らの尻尾を追いかける程度ならばまだかわいいと言えるのだろう。純粋さにおいては犬と同じでも、その姿かたちは全くかけ離れているのだろう。しかし、もし本当にこの予測通りならば、一つの疑問が湧き出てくるのは当然の話だろう。

        「そうだとすると、ぼくらに対処ができるのかい?」

        「あのな、おれは応神だ。応神の家紋は『焔日八咫烏に桐』だぜ。つまり太陽の導き手ってわけなんだ。文字通りな。おれの親父も、叔父貴も、みんな闇に潜むモノの対処はお手の物だ。じつはおれにも何度かの経験があるんだよ。だからあんたは御託を並べればいい。おれが闇を斬る。おれの名字にかけてな」

         そうやって猛然と言い切る応神薙は、彼の黒づくめの服装に反して、どこか光り輝いているように見えた。彼の左腕を覆っている黒い羽根のようなものが少しうごめく。それはどこか自分の存在を主張しているようだった。

        「それと、おれには目もある。結構いい目だ。空中から見ることもできるし、ある程度の壁を見通すこともできる。切り札もだ。切り札を使うと目が使えなくなるが、まあそこは問題にならねえ」

        「なるほど、それは頼もしい」

         谷崎は今までに見せた中で三番目ほどに安心した笑みを浮かべた。ルーズリーフの穴が半分破れて開いた時に見せるような笑みだった。太陽の光が部屋の淡い木目調の内装を照らす。秋の始まりにふさわしく、少し落ち着いた光だった。

        「では、懸念点を洗い出していこう。一つ、これはもともと存在していたものか?そうだとしたら、どこに起源を持つのか?二つ、これは人為的に作られたものか?そうだとしたら、だれが何のために?……こんなところかな。薙くん、確かキミの家には資料庫があったよね」

        「ああ、その通りだ。電子化は一割ほどしかされていないが、まあそれでも結構な量だぞ。その中から怪異に関連するものだけを抜き出すにしても、分析には時間がかかる。やるんだとしたら、先にやっといた方がいいな」

         彼の言う通り、一割だとしてもそれは膨大な量だった。応神の家は少なくとも平安時代末期から続いている家であり、その年月の間蓄積された情報は、地質学者が地層から読み取れる情報よりも多いだろう。ざっと現代語訳されているものに目を通す限り、デジタル化されたのは応神家の歴史だとか式神を作る職人だとか応神の剣術である烏羽二神流の指南書だとか隠密行動の指南書などが大半だった。しかし、もちろん有用な情報もないわけではない。平安の世ではいわゆる「あやかし」や「もののけ」といったものはあまりにも強大ゆえにその姿を直接描写するのがあまりにも恐れられ、具体的な姿を持たないまま猛威を振るっていたこと。応神の家はそれらに対したカウンターの役割を果たしていたこと。具体的には闇に潜むものどもを祓ったり、それらを使役する人間を排除したりするのが仕事だったこと。平安の世において彼らが「闇払い」と呼ばれていたのも、納得できることだろう。いつの間にかに太陽は地平線の下にその姿を隠し、薄暗い帳が情報を精査する二人を気づかぬうちに覆っていた。今日はもう終わりだ。どちらかがそう言いだして、空中に浮かぶ情報の欠片はすべて消え去った。

        「このままじゃあ、埒が明かないね」

        「そうゴキゲンな声で言ったって、明ける埒はないぞ。何かないのか?いつものあんたなら、このタイミングで大体全部分かったみたいな顔をするじゃねえか」

         炊き立ての白米をかきこみ、それを丁寧に咀嚼し、飲みこんでから応神薙は口を開いた。一般には荒々しいとされる彼だが、その実料理も一通りこなすのであった。甘辛く味付けされた豚の角煮。噛めばじゅわりと脂がしみだしてやさしく舌を覆い、確かに歯ごたえのある赤身のうまみとやさしく調和する。同じ鍋で煮られた人参とじゃが芋には程よい塩味、甘み、そして言わずもがなうまみがしみこんでいた。いつもは食事量を抑えめにしている谷崎だが、今日は少し疲れたのか、人並みの量を食べていた。

        「なにもない。まったくね。なにもないんだ。そう、これがどうやら人間の仕業ではないらしいことが分かっただけなんだ。確かなことなどは何一つないのさ。話変わるけど、これうまいね」

        「お褒めにあずかり、恐悦至極に存ずる。話は変わるが、例の大図書館に行ってみたんだ。そしたら司書がなんとも変わったやつでな、なんだかこう、すこし浮いた感じがするんだ。名前は、確か天月千春といったか」

        「ほう、へえ。なるほど。彼女が司書をやっているのかい」

         わずかに豆鉄砲を食らった鳩のような表情をした谷崎は何か知っている様子だった。それも、なにか好ましくない類の思い出がある様子だった。それっきり、彼はずっと何かを考えている様子で、眠るまで一言も言葉を発しなかった。

         東京にやってきて、谷崎の住処にて半ば強制的にシェアハウスをはじめさせられた応神薙は、ここ最近十全に刀を振るえないことに対してわずかながらのやりきれなさを感じていた。それを自覚した彼は、しかしと思い返す。心構えとして最初に叩き込まれたことの一つとして、「無心をして一心」というものがあった。その意味を探せ、というのが彼に刀を託した大叔父の遺志ならば、彼は財団での勤めを経てそれを探すのだろう。応神薙は、眠りにつく瞬間、無意識的に大阪の静かな、しかし確かに凛冽な歴史を感じるあの書院造の家を思い浮かべていた。


        西暦二〇〇五年 二月二十九日

         凛冽とした空気の中、枯れ草もまばらな、斑に雪が白い斑点を染め出している土を足で踏みしめ、えい、やあと裂帛、しかし未熟さを感じさせる声で木刀を振るう少年がいた。「14歳にしては」という接頭辞が付くが、体躯に恵まれており、応神の家の者としてかそれをさらに高めようという意思もある。彼こそが、応神宗家の嫡男たる応神薙であった。白いシャツと紺色のズボンが、彼がいまだに少年であることを指示していた。

        「その辺にしておけ、薙。いい加減に水を飲んで少し休め。日の出からお前の気迫に満ち満ちた声を聴けるのはよいが、しかしながら水も飲まずとあれば俺も少しは心配になる」

         そうやって野太い声を巧みに操って薙に投げかけるのは、彼の父である応神風路だった。深い紺色の着流しを身にまとっており、かつては美しい濡羽の色だったろう髪の毛にもいくらか白髪が混じってしまっているが、高い鼻と堀の深い顔に走る傷も相まって、引退した歴戦の勇士といった様相だ。

        「いえ、大丈夫だ父上。『いかなる状況においても刀筋を崩すな』とは景光叔父上もおっしゃっている」

         風路氏はやれやれと嘆息し、朝食はすでに出来上がっていることを薙に知らせ、書院造の屋敷の奥に消えていく。応神薙は一瞬女子かと見まがう顔にふわりとかかった濡れ羽色の髪の毛を顔を動かして払うことで返事とした。瞬間、彼の鼓膜を叩く烏の羽音。ただの羽ばたきの音なれど、それが直感的に烏のものであり、また強大であることを実感させられる音だ。彼は警戒を厳にしていわゆる霞の構えを上段でとる。防御に優れた構えだ。

        「ほう、ほう。今代の応神はなかなか気骨のある小僧だな」

         畳を斬ったような声を薙に投げかけたその人影は、しかし一目で見れば人間でない特徴を持っていた。背中に、美しい一対の羽が生えていたのだ。すべてを吸い込むような黒なれど、吸い込んだものをそのまま光にして返すような輝きがあった。山伏の服装をしたその人物は、片方の手に木刀を握っていた。はて、脱水で頭がおかしくなってしまったのだろうか。薙はそう一瞬思ったが、南ポーランドに大きな穴が開き、神秘を覆っていた薄いヴェールが音を立てて四散してから、街中でもたびたび妖怪の類が見えるようになったので、天狗くらい珍しいものでもないだろう、と推算を立てた。

        「どれ、儂が稽古をつけてやろうかの」

         そう事もなさげに口にした天狗は体を曲げ、文字通り地を滑るようにして突進する。高く掲げた右手から、最初の一手は振り下ろしであると容易に想像できた。薙はそれを受け止めるべく、木刀を頭の上に置くようにして構えた。次の瞬間、腕にかかった衝撃は彼の想像を悠々超えるものだった。紅い鼻高天狗の仮面の下にわずかな笑みを見た彼は、木刀の衝撃だけで約一メートルほど後退を強いられ、さらには姿勢を完全に崩されてしまった。見逃しようのない隙だった。あまりの出来事に呆ける応神薙に、天狗はアドバイスめいて言葉を投げかける。

        「天狗の神通力が一、神足通よ。まあ、何であれだ。愚直にに正面から受け止めるのもよくないが、かといって柳のように力を消して受け流すのもあまりよくない。その中間じゃな。狙うべきは」

         どれ、打ち込んでみよと霞の構えをする天狗。手のしびれも、崩れ切った姿勢も今は何とか回復した。ならば全力で打ち込むのみだ。薙は先ほど見た天狗の猛進を可能な限り頭の中で反芻し、それと同じように、しかし神通力は無しで単純な体重移動と脚力で大上段から打ち込んだ。その間に天狗は文字通りにピクリとも動かず、ただそこでじっとしているかのように見えた。木刀同士がぶつかるその瞬間、天狗が動いた。

        「な、に……!」

         思わず驚愕の声がこぼれたのも仕方がない。薙の体が文字通り後ろにはじき返されたのだ。今起こった事象を解釈する。一瞬の時間に無限大の力が加われたようだったが、冷静に考えてみればそのようなことはない。天狗の木刀が、薙のそれを叩いたのだ。触れるか触れないかのその瞬間に、そして叩く瞬間には力を抜いて。天狗はほっほっほと笑った。

        「これがいなしよ。剣が己が肉を裂かんとするその直前、敵は最も油断する。その油断を突いてやるのじゃな」

         この際、天狗が何者かはどうでもよかった。元より薙自身に修行をつけることのみが目的だったようで、素性を聞き出せる雰囲気でもなかった。しかし、記憶をたどってみると天狗は俗世を嫌うはずだ。そんな種族がなぜこのようなところにいるのか不思議ではなかった。「それはいずれおまえ自身が明らかにするだろうて」薙の心を読んでか、天狗が答えた。再び、両者ともに木刀を構える。今度の天狗の打ち込みは、いくらか手加減した様子だった。

         上段、中段、袈裟斬り。十合ほどもそうやって打ち合えば、もともと筋が良く基礎もできていた薙は、いなしの基礎のキを身につけてしまっていた。失敗して姿勢を崩されそうになるのはたびたびあれど、確かに成長していたのだ。それを克明に感じ取った天狗は、次のステップに行こうと体をかがめる。

        「突きか……」

         そう直感的に理解した薙は、その点の攻撃をどうやってかわそうか思案する。どうせならば意表をついてやろうとして、薙は悪童のような男の子然とした表情を思わず浮かべた。おおよそ五メートルの距離をただ一度の踏み込みで詰めた天狗に対し何度目か分からない驚愕の念を浮かべども、応神薙の心中はいたって冷静だ。突きが薙の腹に達せんとしたその瞬間、薙は一歩踏み込むことにより半身となり、木刀を思いきり踏みつけた。予想外の反撃に天狗は思わず体制を崩し、それを好機と見た薙は木刀を首筋に突き出した。天狗だから何をどうやっても死なぬだろうとの読みだった。

        「やるな……お主」

         瞬間、天狗の体は墨のように溶け去った。いよいよ脱水症状も本格化してきたかと惑う薙だったが、あとに残った一本の黒い風切羽をみて、今までの出来事は現実であったと実感する。太陽も昇ってきたころだ。鍛錬の後に食う朝食はさぞかしうまかろう。薙は、いつの間にかに始まろうとしていた新しい一日に、心躍っていた。確かにあの時に聞こえたのだ。明日も、同じ刻にと。


         応神薙が生まれてから、応神景光はよく大阪の屋敷に足を運ぶようになった。もともと蒐集院の秘衛府にて衛士として勤めていた彼は、戦後の吸収合併に伴い、財団のエージェントとして雇用されることとなった。御年八十二歳であるが、身に纏う剣気や術の腕は未だに衰えを見せず、剣豪の異名は伊達ではないとわかる。彼は、薙に様々な稽古をつけていた。一週間に三度か四度か、夕方に。今日はちょうどその日だった。太陽が地平線の向こうに隠れ、マットな藍色とオレンジ色の境界線が美しい時刻、景光は白く染まった彼自身の髭と髪の毛を風が通り過ぎるのを感じ取りながら、薙の到来を待っていた。

        「今参りました、景光叔父上」

        「良かろう。では始めるとしよう」

         踏みしめる土の感触が、未だかつてなく楽しげだった。両者ともにまともな防具は着けておらず、当たれば打ち身などでは済まないのだろう。しかし、幸いにしてか薙の木刀はまだ景光に届かず、景光の方も寸止めはお手の物なので、怪我が出ることは稀だった。とろけるような藍色の空の下、お互いの輪郭があいまいになったその瞬間、景光が動き出す。水の構え 正眼の構えともよばれる構えをとった薙は、大上段からの振り下ろしを天狗の教え通りにいなす。

        「ほう……それを身に着けおったか」

         奇しくもそれは、かつての景光の戦い方と一致していた。彼はかつて刃こぼれをいとわずに剣戟をいなした結果、戦いの最中に刀が折れてしまって窮地に追い込まれたことがある。そういった経緯により、彼の長刀である風切は、日本刀としてはむしろなまくらな方であるが、その分頑丈で、突きに特化しているのだ。光を全く反射しない黒の拵えと、八雲の地肌に鋸刃の刃紋を持つそれは、誰が見ても名刀だという風格を漂わせていた。

        「よい。気に入った。ならば俺の刀を譲ることとしよう。どうせもう使わんからな。そちらの方が刀も喜ぶというものだ」

        「は……?」

         予想外の一言に思わず呆けた声を出してしまう。薙が見せたその隙に、景光は中段に打ち込む。寸でのところで反応ができた彼は、木刀を大きく弾かれて体勢を少し崩されかけたものの、どうにか持ち直す。木刀の一振り一振りが重い。マジックでもトリックでもなく、八十年近く刀を握ってきた経験と戦乱を潜り抜けてきた技術に裏打ちされたものだった。

        「無心をして一心。恐怖も、情も捨てろ。ただ目の前の敵を斬ることのみを考えろ。いや、考えずして、考えろ」

        「それは……」

        「ある種の訓示だ。今のお前に理解してもらおうとは思っとらん。なに、人生を丸ごと使って答えを探せ」

         アラームがけたたましくなる前に、彼はスマホを探り当てた。

          • _

          「もう一度『天ノ川』に行ってみたらどうだい」

           次の日の朝、朝食を片づけた後に、谷崎は唐突に口を開いた。いつもよりも軽薄そうな声だった。昨日の様子からして、天月千春のことを知っていそうなことは明らかだったのだが、それならば彼自身が足を運ぶのが筋ではないか。応神薙は自然とその思考に至った。しかし、彼はわざわざそれを口に出すことをしない。谷崎は突拍子もないことを言うように見えても、後々になってその意味が効いてくるというのは、この数か月でいやというほど学んだ。

          「キミのご明察の通り、ぼくは彼女とは知り合いだ。昔の彼女はなかなかにさばさばした性格だった。しかし、今の彼女はもはや別人だということも聞き及んでいる。ぼくが行くと、おもわず昔の色眼鏡をかけて話してしまうんだ。だから 

          「ああ分かった。もういい。行ってやるよ。昨日話した通りだ。お前は口上担当、おれは斬る担当。それでいいじゃあねえか」

           応神薙は降参だといった様子で、両手を上げておどけるようにして言う。彼なりの谷崎への趣返しだった。谷崎のハシバミ色の目と応神薙の濡れ羽色の目が合う。ぷっと噴き出したのは、どちらだっただろうか。三秒ほど軽く笑ったあと、応神薙は刀を左腰に差し、それを隠すようにして左半身を覆うケープをかけ、足早に住居を去った。


           応神薙はいささか釈然としない気分のまま、天ノ川の門の前に立っていた。昨日と今日にかけて谷崎が見せたあのあからさまに不自然な言動の解釈に迷っていたのだ。いつもの彼ならば理由を並べ立てることなどせずに、行動の方針だけを簡潔に言うのだが、今回は明らかに違っていた。彼が天月千春を知っているのは明らかだが、なにか後ろめたいことでもあるのかと疑問を持たざるを得なかった。なんとなしに「目」を使う。視界が水墨画のように塗り替わり、そして壁の向こうに一つの青色の光を認めた。長らく失伝していたとされる技術だが、世に神秘が舞い戻ったので、もともと適性のあった応神はすぐにこの技術を習得できた。専門家によると、EVE放射を直接見ているのだろうが、詳しいことはよくわからないそうだ。

           門を押し開け、中に入る。昼前のしんとした時間の図書館にいるのは、やはりというべきか天月千春ただ一人だ。彼女はこの前と全く変わらない様子で偽物の草原の上で静かに本を読んでいた。応神薙は適当な歴史の本を一冊手に取り、彼女の横に腰掛ける。サングラス越しにちらりと見た彼女の目元には、化粧によって巧妙に隠されているものの、わずかな隈が見て取れた。

          「……よく眠れていないのか?」

          「ぼくがもしそうだとしても、きみが気にすることじゃあないさ」

           天月千春は本から一瞬たりとも目を離さずに言う。見当違いの方向に投げられたボールを拾う者は誰もいなかった。代わりに、応神薙が新たなボールを生成し、彼女の方向にゆっくりと投げつける。お手本のような会話だ。

          「いいや、気にすることだぜ。おれはたまたま隣に座ったやつが寝不足だと寝不足になっちまうタチなんだ」

          「なんだい?それ。面白いことを言うね」

           彼女から気のゆるみを引き出すことが応神薙の目的だった。本の世界に身をうずめると、どうしても気が張ってしまって見えてくるべきものも見えてこないのだそうだ。応神薙の方を見てくすりと笑った彼女の顔からは、明らかな疲れが見て取れる。彼女が何日もまともに眠れていないことを、応神薙は強く確信した。

          「やっぱり、眠れてないみたいだな……どれ、原因を聞かせてみろ。おれがスパッと斬ってやれるもんかもしれない」

          「……夢を、見るんだよ。同じ夢さ」

           反射的に口を閉じた彼女自身も、それを打ち明けた原因はわからなかったろう。サングラスで表情の読めない応神薙の声は、しかし彼女が普段よく話をする人のだれよりも頼もしく聞こえた。そういえば、応神と言えば千年以上も続いているいいお家のはずだ。彼女はつい最近本で得た知識を反芻する。都の闇払いとも呼ばれた応神の者に対して話すのなら、悪くないのではないか。頭の中で再び理由をつけると、彼女はまた口を開いた。

          「渋谷の、スクランブル交差点。ぼくは眠るといつもそこにいるんだ。けたたましく鳴る踏切の音に縛られて、ぼくの脚は動かない。とてつもない暑さをはらんだ車掌の声が次の場所を告げるけど、ぼくはそこがどこかを知らない。また一人、誰かが死ぬんだと思って、ぐっしょりと寝汗をかいて目が覚める。こんなもんだよ」

          「なるほど、な。おれたちが得意な分野に違いない。あとで案内するぜ」

           応神薙はコートの裏から折り目のついた紙を取り出し、何かを書き込んでから烏の形に丸めるようにして折った。風に吹かれるようにして空に舞うそれは、壁をさも枝葉の集まりかのように通り抜ける。天月千春は一連の行動をあまりにも無造作に、そして自然に行った応神薙に対して少し感嘆の気持ちを抱いた。応神薙はズボンを意味もなく払い、立ち上がる。黒いロングコートとケープがふわりと風をはらんだ。

          「飯でも食いに行くか?なに、腹が減っては戦ができぬということだ」

           応神薙はしっかりと地を踏みしめて歩く。天月千春も本をその場に置いて彼の後についていった。


           谷崎翔一は、少しほっとしていた。天月千春との初めての邂逅。谷崎がまだ公安部特事課に勤めており、また天月が初動対応の 俗にカナリアと呼ばれる部類のエージェントだった頃だ。谷崎は目を閉じる。今でも、それは克明に思い出された。アスファルトの上に陽炎が立ち上った夏。忘れもしない、2011年の渋谷。これを反芻するのは、いつも一人の時だった。意識的に振りかえなければ、彼はこれを忘れてしまいそうでもあった。

          西暦二〇一一年 八月二十五日

           刺激臭がするほどの蜃気楼が沸き立つ渋谷。いつもなら夏休みを満喫している あるいはした学生や社会人によって埋め尽くされているだろうそこは、物々しい雰囲気を身にまとう三つの組織による、狭域的な作戦が展開されていた。一つは財団。もう一つはそれに肩を並べる連合。最後はいささか前の二つに比べれば格は落ちるが、公安部特事課。以前に比べれば勢いはいささか落ちたとはいえ、財団と連合が正常性維持機関の頂点であることは変わらなかった。その二つの組織が渋谷のスクランブル交差点を封鎖し、特事課の人員は財団側と連合側に均等に割り振られていた。谷崎翔一は、財団側の部隊の班長と顔を合わせていた。

          「ああ、あんたが公安の」

           そうやってつぶやく女性は、谷崎よりもわずかながらに身長が高く、またはっきりと芯のある声をしていた。長く黒い髪が、どこまでも印象的だ。谷崎翔一はうなずき、そして返事を口にしようとする前に、彼女が自らの名前を述べた。天月千春。不覚にもいい名前だな、と彼は思ってしまった。真っ黒のコンバットスーツを身にまとっていても、一貫して涼し気な表情を浮かべる彼女に、どこかうらやましさを感じた。

          「ぼくは谷崎翔一。ハム公安の切れ端です。五行は、来ないのですか?」

           わずかながらの皮肉を込めて彼は言う。彼の直属の上司である大島の、さらに上から言い渡されただろう指令からは、財団と連合に敵わないのはわかっているから、取り敢えずメンツだけはつぶされるな、といったような思惑が透けて見えた。適切に動いて、適切に報告しようと決心した彼は、官僚の支配する世界にだいぶ嫌気をさし始めていた。振り向き、自分の持ち場に戻ろうとする彼は、しかし天月千春に呼び止められる。

          「全くシャレにならないことに、遅れるみたいだ。奴らが時間を守ったことなどあまり記憶にない……そうだ、うちの副班長にも顔を合わせておくといい」

           何気なくつぶやいた彼女の声にひかれて、実直そうな若い男性が彼女の隣に並び立った。背格好は天月と同じほどであるが、体格は良く練り上げられている様子だ。ヘルメットを邪魔しないように、短く借り上げられた髪の毛がなんとも若草を思わせていた。機動部隊やカナリア特有の粘り気を感じさせない、夏風のような雰囲気を両者ともに纏っている。

          「私は太田純也です!よろしくお願いします!」

          「ぼくは谷崎翔一。ところで太田さん、おめでとうございます」

           公安の庁舎においても、谷崎の目の早さは少し有名になっていた。要らん事までべらべらしゃべるな、燻されるぞとは、谷崎の直属の上司の言葉だった。上司なりの嫌味だったが、谷崎は等しくそれを見抜いて、生返事をもって答えた覚えがある。ともかく、谷崎の言葉に一瞬呆けた様子を見せた太田もすぐにその意図に気が付き、照れ隠しの笑みを浮かべて、そして短くありがとうございますと返した。妻が先日出産したとのことだ。

           ピピッと鳴る時計が、油を売る時間はもうないことを告げていた。神秘の濃度は刻一刻と高まっており、いつそれが爆発するかもわからない状況だった。物々しいバリケードを越えて、谷崎は財団のカナリアと機動部隊がスクランブル交差点に立ち入るのを見届けてから、自らも足を向こうに踏み入れた。指揮は財団と連合が共同でとっているらしいが、それがすでに割れているだろうことは、朝日よりも明らかだった。財団も、連合も、公安に至るまでも、組織としていささか気が立っていると言わざるを得ない状況だった。

           境界を超えると、そこはいつもの渋谷だった。つまり致命的に現状と齟齬が出ているということだ。明らかに谷崎の目には夏休みを満喫している あるいはした学生や社会人によって埋め尽くされているように見えた。もうすでに罠にはまってしまったのか。谷崎は一瞬だけ冷や汗をかくも、財団の部隊を探すことを忘れなかった。呑まれてはいけない。絶対に、呑まれてはいけないのだ。

           床に触れるのは仕方ないが、彼自身のことを気にも留めていない、ゴム人形のような人の群れには絶対に触れたくなかった。触れてしまえば最後、どこかここではないところに連れていかれてしまう気さえしてしまったからだ。遠くで銃声が聞こえる。発砲許可なぞ降りたわけがない。デバイスを見ると、確かに発砲許可の文字があった。心なしか、ランダムに動いている人の群れに、流れができたような気がした。

           天月千春は、人の群れが唯一覆っていないスクランブル交差点の中心部へと歩みを進める。このような場所において、振り返るのは最もやってはいけないことであると叩き込まれていた。だから彼女は視線を一切動かさずに前に進む。そこで連合の排撃班と落ち合う予定だったのだ。銃は持っているだけで、構えていない。安全装置はもちろんかかっているし、引き金にも指はかかっていない。瞬間、遠くで銃声が聞こえる。気が立った排撃班の隊員が、誤射をしたのだろうと彼女はあたりをつけた。しかし、直後に太田が言う。

          「班長、発砲許可が出ています!」

           あらゆる感覚を信用してはいけないのだ。谷崎のご自慢の耳や目はもちろんのこと、空気に触れる肌の触覚、渋谷の刺激的な雰囲気を嗅ぎ取る嗅覚や、味覚ですらも信じてはいけなかった。見えているものが本当にそこにあるかはわからない。他の感覚にも同様のことが言えるだろう。世界というものはひどくあやふやであるなあ、と谷崎はひどく場違いのことを考えた。無我夢中で、今度は明らかに流れができた群れを避けつつ、財団のカナリアたちの隊列の背中を目に入れる。あれが本当に天月たちなのかはわからない。最後に頼れるのは、やはり自分の脳みそなのだ。

          「絶対に振り向かないで聞いてください!これは罠です!発砲許可の文字も、なにもかも見せられているんです!そもそも、信念も何もない銃なんかが効くわけがない……!」

           太田純也は前方から鉄のひしゃげるような音がやってくるのを感じた。たしか、連合の排撃班にはパワードスーツのようなものが配備されているはずだ、と思い当たる。彼の耳には、いつも通りの渋谷の喧騒とともに、谷崎の声がいささか捻じ曲げられて届いた。「振り向け!」と。それに従い、彼は振り向く。実のところ、天月千春以外の全員が振り向いてしまっていた。そこにはただ、いつもの渋谷の喧騒が広がっているだけだった。なんだ、驚かせやがってと安心した彼は、再び前を向いた。そこにも、ただの渋谷の喧騒が見て取れた。今まで追っていた天月千春の背中ではなく。やらかした。それが、彼の最後の思考となった。

           天月千春は、後ろから聞こえた谷崎の声も、何かがひしゃげる音も聞こえなかったふりをして、前に向かって歩みを進める。彼女は自身が冷や汗をかいていることを強く実感した。暑い。このコンバットスーツを脱ぎ捨てて、楽になってしまいたい。そう囁く何かを振り切りながらひたすら中心部に向かって歩く。次に彼女が感じたのは何かが風を切る音だった。痛みもなく彼女の左目にめり込んだそれは、ひどく熱を発しているように思えた。内側から何かがかきむしる痛みに耐えかねて、彼女は自らの意識を手放した。

           天月千春率いる一隊が丸ごと倒れるのを見ても、谷崎は特に声を上げなかった。その代わりとして、谷崎のすぐ横を一陣の風が通り抜けたような感じがした。瞬きの間に、彼の目の前には派手な金髪の、ふわりとサイズの合っていない真っ白のパーカーを羽織った、ダメージが入ったデザインのショートパンツを履いた若い女がいた。直感的に、彼女が五行の者であると谷崎は感じた。ハイヒールを履いているのに、なぜこうも素早く動けるのかが不思議でたまらなかった。

          「Fもハムもゴックも、こんなものにてこずってるなんて。なんだか残念っ」

           背中を向けているのにもかかわらず、谷崎は彼女が溌溂な笑みを浮かべたのだと克明に感じ取った。谷崎はそれに続いて彼女が発した言葉をほとんど聞き取ることができなかった。あまりにも音がつながっており、また調子も独特だったからだ。如何にそういったことに疎い谷崎でもそれが祝詞の類であることらしいことが分かった。しかし、彼女がわざと分かりやすく発音したのだろうか。「ミヅハメノミコト」この一言のみを聞き取ることができた。奔流が何の脈絡もなく登場する。いや、いままさに奏上された祝詞が招じたのだ。太陽の光を受けて輝く水は、谷崎と目の前の女には何一つ影響を及ぼさず、彼らを取り巻いている群れと、倒れている数人を覆い隠した。最後に、何やら眠っている様子の天月千春のみを残して。

          「あちゃー。随分とこっぴどくやられちゃったなあ 

           そのあとに続く言葉を、谷崎はついぞ思い出すことはなかった。


           過去に飛ばしていた意識が戻って来た時点で、谷崎はおそらくはこの一連の騒動の元となったインターネットの書き込みをとりあえず放置することに決めた。インターネットの書き込みは数多なれど、それが実際に怪異として結実し、顕現するためには人為的にコアを用意しなければならないからだ。エネルギー源となる信仰の量が、他のネットロアのそれと打ち消されてしまい、結局有意な値をとらないのだ。サーバーから例の書き込みを含むスレッドを丸ごと削除し、祓詞を一通り保存したハードディスクを回せばよいと判断した。実際に専門家に聞いてみても、その対応で十分だとの見解が得られるだろう。「誰がやった」かはいまはいい。問題は、次に相手が打つ手だ。

           ならば、と谷崎はすくりと立ち上がり、ノイズの走っているウサギの写真がプリントされたマグカップに満ち満ちていたコーヒーをあおる。いいコーヒーは甘いのだ。芳醇な香りが鼻腔を抜け、そして苦みだけではない複雑な味が舌をやんわりと包む。このコーヒーのうまさを薙くんはわかってくれないものだなあ。谷崎は脈絡もなくそう思った。お茶だけでなく、水を用いて何かを抽出をする作業において、彼の右に並ぶものはそうそういないのだろう。ふわり。ラグマットの感触を足の裏で感じながら、谷崎はあくまでも軽やかにベランダの上に躍り出た。都会の風が彼の髪の毛を揺らす。灯を点す頃だ。

           ふわりと彼の髪の毛を揺らし、烏をかたどった折り紙は欄干の上に着地した。応神薙が連絡用に使う即席の式神だ。電波を使用しておらず、さらに種々の電探などにもかからないので、防諜用として重宝されていた。ただ意思なく単一の目的 手紙を届けることを成し遂げたそれは、谷崎が反射的につかまねば風に吹き飛ばされかねなかった。紙を傷つけずに折り目を開くと、そこには四角四面な字でただ簡潔に書き込まれていた。「天月千春を連れて行く」と。

            • _

             恐怖をはらんでいるだとか、そういった類の静寂ではない。生理的にパズルがあっていないような気さえする類の静寂だ。応神薙と向かい合って座っている谷崎は、灰色で素朴な作りの万年筆をもてあそびながら、いつもの良くわからない顔をしてただ静かにしていた。天月千春は、向かい合っている二人の間を向くようにして座っている。威圧感を与えないためだそうだ。

            「話すことは 

            「ないのでしたら、お出口はあちらですよ。薙くんの苦労は無駄になっちまうがね」

             表情も目線も動かさずに淡々と言葉を投げる。それがたとえどんな暴投であったとしても、人から言葉を引き出すにはいくらかの横暴も必要なのだ。谷崎もその加減をよく分かっていた。わざと粗野な言葉を使ったり、つっけんどんな態度をとると、ほかの人の素の状態を見ることができるのだ。そのような意図が見え透いている彼のことを、天月千春はどうにも気に入らなかった。

            「ない、というか覚えてないんだ。ええと、ぼくは昔エージェントで、渋谷が強く印象に残っている」

            「そりゃあ、ぼくもあの場にいましたからね」

             天月千春は最近彼女を悩ませている夢の話をした。それが終わる瞬間に、谷崎も彼が覚えている限りの渋谷をゆっくりと反芻し、口にする。今や完全に夜のとばりは下りた。窓の外からの涼しげな微風と蛍光灯の無機質な光が、調和しないことで平衡を保っている。文明の光に煌々と照らされてしまったこの時間は、数世紀前と比べたら大きく変わっていた。未知は機知に変わり、呪術から脱した世だ。賢人たちの啓蒙の結果というべきか。その代わりに、世界は大いに冷徹になってしまった。

            「その、金髪の女だ。もしかしたらおれの知り合いかもしれん」

            「そんなことって、あるのかい」

            「まあ、ありえん事もないだろうな。超常コミュニティってのは広いように見えて意外と狭いんだ」

             低く水を打ち、良く通る声で応神薙は確信をもって話している様子だ。曰く、彼女は呪術師の系譜であるのにも関わらず陽の雰囲気を持っているらしい。いわゆる腐れ縁という奴だ、と彼はぼやくように言った。三人は各々無意識のうちに崩れてしまった姿勢を正す。再び部屋の中に沈黙が流れる。しかし今度明らかなのは谷崎が深く考えていることだった。癖なのだろうか。身長にしては長い指を顔の前で組んでいる様は、役にハマっている印象を強く受ける。

            「普通に考えれば、金髪の女が何かを天月千春の中に封じたんだろう。あくまでも普通に考えれば、の話だがね」

             一般に、呪術というのは人に向けられた時に多大な効果を発揮する。人に対する恨みつらみが積もって効果を発するのだから、元が恨みつらみであるもののけに対しては効果が薄い、あるいはまったく効果が無かったりさえもするのだ。怨嗟の炎は、炎自身を燃やせないのである。しかし、谷崎も薙もある種の裏技の存在をどこかで小耳にはさんでいた。もののけと人が同じ場にいる時、物の怪を丸ごと人の中に封じ込めてしまうと、問題を先送りすることが可能になる。先送りということはいずれ対処しなければならないということであるが、よりよい対処ができるのである。

            「なあ、ぼくの中にいるのかい?」

            「……随分と、しおらしくなりましたね。その察しの悪さは記憶の通りですが」

            「……結構な言い口じゃないか。何も知らないくせに、知ったような風を吹かせないでくれるかな」

            「あんまり余計なことを言うなよ、谷崎。天月は依頼人ということになっているからな。天月も熱く 

             天月千春は丸机を力の限り叩き、立ち上がる。元エージェントにしてはやけに弱弱しい音がしたように聞こえた。谷崎はまるで結果を予測ていたかのように微動だにせず、変わらずに万年筆を手の中で回し続けていた。細められたまぶたから覗く二つの目から漏れるのは何やら挑戦的な光だ。わなわなと腕、そしてそこから伝播して全身を震わせる天月千春は、熱くなってしまった頭をどうにかまとめつつ、ゆっくりと口を開いた。

            「何も、知らないくせに。過去をなくすこと、支えるものを全部なくすことを知らないくせに、よくもいけしゃあしゃあと言えたもんだね。熱くなるな、だって?ぼくはな、最初から熱くなんてなってないさ!ちょっと期待したぼくが間違ってたよ。ああ、お望み通り出て行ってやるね、こんなところ!」

             彼女は涙と思ったよりも小さな背中を応神薙の印象に残して廊下を足早に歩いて行った。ドアの閉じる音がやけに響く。薙が何かを言う前に谷崎は手で制止し、黒い普遍的なパーカーを羽織る。出かけるぞと視線で言われた薙も同様にコートを着こみ、そして獅子斬も含めて刀を帯びる。夜だ。日中は目立つ彼らだが、夜になると服装も相まってどこかしらにハマったような印象を受ける。1階まで下がったエレベーターを14階まで呼び戻す間の短い時間に、谷崎は彼の要件を手短に伝えた。

            「キミの烏は確か発光したね。それを使って天月千春を探し、そして導いてほしい。えっと、猿江までだ。いわゆるもののけは感情に強く反応するからね。ちょいと揺さぶりをかけてみたのさ。現状は彼女がただ一つの手がかりだ。この件の裏には人間が少なからずいるだろうが、もののけに関しては一年前とまったく同じ個体だろう。個体という言葉が適切かどうかは知らんがね」

            「そりゃあ、八咫烏だから光るが、本当に大丈夫か?その、天月がそうでなかった時」

            「その時は、全身全霊魂を込めての謝罪をするさ。さあ、意外と時間はないんだぜ。早く」

             谷崎は応神薙の烏の羽に覆われた左前腕をまじまじと見るのははじめてのような気がした。一見無造作に羽を散らしたように見えるが、よく観察してみると流線型の形が二つ見て取れた。これが翼だろうか。色もただ黒いのではなく、どちらかというと青黒い印象を受ける。手の甲のすぐ下に硬質な嘴のようなものと一対の光り輝く目が見て取れる。どこまでも生物的だが、それでいて装具としての美しさを確かに湛えていた。

            諷経フギン、おれの目になってくれ」

             諷経、お経を声に出して読むことをあらわす語であり、偶然か否かオーディンの使いの烏の片方と同じ名前を持っていた。薙がその名前を口に出した途端、彼の左腕が形を持って空に飛び去ったように見えた。空母から飛び出す戦闘機のようだった。しばらくして烏は白く暖かい光を出し、夜空に消えていった。

             天月千春が新開橋に差し掛かったころ、彼女は頬に何やら暖かい光が当てられていると気が付いた。光は彼女の体の周りを数度飛んでから、また空に昇って行く。ついてこい、と誰かに言われたような気がした。天月千春としてはこれ以上心を乱されるのはごめんだが、このまま尻尾を巻いてどこかに消えてしまうのも癪な話である。彼女は数瞬の迷いの後、光の後を追うことにした。西大島駅で西に曲がり、もう一つ橋を越えたところに目的地はあった。猿江恩賜公園、元々は江戸幕府の貯木場であり、昭和天皇のご成婚に際して東京都に下賜された公園だ。第二次大戦の東京大空襲に置いての焼死者の仮埋葬地となったりしたが、いまは近隣の小学生がマラソンをするくらいには普通の公園である。

             片方の目を烏と共有している すなわち俯瞰の視点であるというのは、思ったよりも奇妙な感覚である。烏の羽ばたきに伴って視界が上下し、思わずバランスを崩しそうになってしまう。烏を飛ばして索敵などをするのなら普通はその場に目立たないようにしゃがむなり立ち止まるなりするのである。つまり、烏を出したままほかの人を尾行するのは初めてであるということだった。天月千春が猿江恩賜公園に吸い込まれてからは谷崎の足も一層速くなる。江東区の下町にしては鬱蒼としている猿江の林にて谷崎は再び天月千春と出会った。

            「どうも、久しぶり。さて、その眼帯の下側を拝見したいのですが」

            「は……?」

             天月千春は一瞬だけ毒気を抜かれた。その実、この一瞬が大きな効果を持つことになる。彼女の左目から靄のようなものが噴出する。よくないものだ、と直感した谷崎は反射的に横に転がる。起き上がった彼が見たのは、左腕に烏を戻した応神薙の姿である。振り返ってみれば、天月千春は気絶してしまっていた。靄に生気を吸われてしまったようである。薙は土を大きくへこませるほどに踏み込み、背中に差しておいた獅子斬を抜いて天月と靄のつながりを断つ。どこかしら靄が悶えたように見えた。

            「なるほどな。ここからはおれの出番ってわけかい」

            「そうだとも。口上はここまでさ」

             谷崎は天月千春の体を抱え、応神薙の背中をしっかりと目に焼き付けながら後ずさる。かちり、と鯉口を切る音に続き、月の光を克明に反射する約85センチの打刀が抜かれる。刃紋のみならず地肌模様さえも隅から隅まで鮮明に見えた気さえした。ただの鋼ではなく、で鍛えられたこの刀は、80年以上もの間戦場にさらされたが、その刃が損なわれる様子はまったくもってなかった。アマクニの手腕は、いつでも確かなのである。恐怖の靄に隠された物の怪の姿は、それほど大層な恐怖を抱いているというわけでもない谷崎と、無心でいることを努めている応神薙に観測されて、その姿を見せる。まず注目するべきはその体格であろう。応神薙の二倍ほどの身長に不釣り合いなほどに長い腕は脅威になるだろう。一見すると猿の様であるが、驚くほどにやせぎすであり、また毛が一本も見受けられない肌は赤くぬめっていた。頭部は丸い代わりに合掌したような形をしている。胸骨は一見パンタグラフのようであり、また脊柱は線路のような印象を受けた。しかし、応神薙にとってはそのような些末事などよりも、目の前の存在がただの標的であることに意識を向けていた。

             標的は右腕を強く突き出す。それに対して薙は半身になり、腕を叩き落とすようにして踏みにじる。それに対抗してか標的も腕を跳ね上げる。しかし薙はそれすらも利用して後方転回ざまに切りつけた。烏羽二神流の技の一つ、逆さ独楽は攻撃と回避を同時にできる優秀な技の一つだ。薙のすぐ後ろには木が一本。標的は地面を這うような姿勢になり、こすりつけるような金切り声を上げて両腕と頭部の代わりの手を広げて猛進する。危険。脳裏にその文字が浮かぶ。後ろへの回避も不能。横も同様に悪手。ならば、上。戦闘勘の優れた彼の脳がそう判断を下すのにコンマ数秒もかからなかった。薙は木を駆け上り、そしてその幹を力いっぱいに蹴りつける。標的の後ろをとった彼は滑らかに踏み込み、そしてその不釣り合いなほど細く短い脚を切りつける。驚くほどにすんなりと切ることができたそれは、しかし次の瞬間には再生してしまっていた。これは、そもそも現世とのつながりを断たねばならない類のものである。薙はそう確信した。

             乱雑に振るわれた腕を避けるついでに数度切りつければ、一瞬だけ腕が垂れ下がる。しかし瞬きでもすれば腕は元気に動き出すのだ。本来、ここまで実体の強度が弱いならば、数度四肢を切り飛ばせば自動的に力が漏れて体が霧散する。この場合のエネルギーは保存するのだ。再び標的が右腕を突き出す。先ほどと同じようにして薙は腕を叩き落とし、そして踏みつける。また同じように腕を跳ね上げられるが、応神薙はその力を使って前に跳んだ。月夜にコートがはためく姿は、話に伝え聞く忍びのようでもあった。その勢いを利用して応神薙は標的の首元に風切を突き刺す。指揮系統と体とが断たれ、膝をつく標的。次の瞬間には復帰するのだろうが、薙には十分すぎる隙だった。背中に吊っていた獅子斬を抜刀し、力を少し込めて頸部を弾くように切る。確かに合掌された手は弾き飛び、そして応神薙は谷崎の方へと歩みだした。

            「まだだ!薙くん、奴は終わっていない!」

             谷崎が力の限りに叫ぶ。天月千春はその声を聴いて意識を朦朧の海から引っ張り出した。彼女がまず見えたのは後ろから照らされる応神薙の姿だった。次に見えたのは、吹き飛んだ頭部を回収し、そしてそれをもって胸骨と背骨をこすりつけている異形の姿だった。まるで猿が見せた夢。鉄と鉄がこすれるような音に混じり、しわがれたアナウンスの声が聞こえる。次は蒸し焼き。蒸し焼きです。手負いの獣が最も恐ろしい。異形は地面に四つの手のひらをつけ、何かを吸収する。かつてここにいた魂の欠片だ。一つ一つはたいして大きなエネルギーではないものの、塵も積もれば山となるとはよく言ったものである。天月千春はそのあまりのおぞましさに思わず目を逸らそうとする。しかしその直前に彼女はしかと目にしたのである。こちらに背を向け、左手を刀の鞘に添えて右手をこちらに見せる応神薙の姿を。今回ばかりは、谷崎も何も言えなかった。

            阿波利矢 遊ばすと白さぬ 顕正座に天照大神 降りましませ

             実際に神を降ろすわけではない。腰を落として抜刀の構えをとった薙はつぶやくようにしてその力ある言葉を口にする。これは一種のパスワードのようなものだ。応神が唱えることにより、式神の核として代々継承してきた八咫烏の欠片を呼び覚ます。長らく眠っていたと思われるそれは、しかし主の呼びかけに寸分の狂いもなく応ずる。曙色のそっけない紐で結われた薙の長髪がふわりと風に揺れる。

            阿波利矢 遊ばすと白さぬ 顕正座に天照大神 降りましませ

             二たび唱えれば、これが誤作動などではなく、真に必要な時であると理解される。応神薙の左前腕から光の奔流が鞘に納められた刀に向かって流れ込む。古今東西、あらゆるもののけは破壊と再生の、そして生命の象徴たる太陽を恐れるのである。目の前にいる異形とて、それは変わらないのだ。標的は、思ったよりも大きくなかった。

            阿波利矢 遊ばすと白さぬ 顕正座に天照大神 降りましませ

              刮目せよ。どこかからそのような声が聞こえた気がした。三度唱えれば、神にも通ずる力は術者である応神薙の肉体を駆け巡る。音すらも置き去りにしかねない踏み込みにより、踏み固められた土は後方に飛び散ってしまう。それに続くは、光子の奔流を纏った伝説的な一太刀。標的は内側から灼けるように消滅する。応神薙は、確かにこの瞬間日輪を背負っていた。


             Darkness Enlightened 

             谷崎があらかじめ救急車を呼んでいたのだろうか。遠くからサイレンの音が聞こえる。何の変哲もないように見える黒い石のみを残して、先ほどまで劣悪な存在感を放っていた異形は跡形もなく消滅した。この石がエネルギーを供給していたと考えていいだろう。応神薙はそれを拾いに行こうとするが、一歩踏み出したとたんに月明かりでもはっきり見えるほどに顔をしかめ、そして鼻と口を覆う。

            「こりゃあ、殺生石だ……!」

             殺生石。九尾の狐の呪いとも言われ、文字の通りに近寄った者の命を奪う石だ。この石が安置されている那須は多様な術式に加え、いまもなお増え続けている地蔵をもって封印されている。様々な組織の監視の目がある事は想像に難くない。ひとかけらであろうとも上級の炉心になってくれることは間違いないが、代わりにその呪いの力が振り撒かれるのはあまりにも非効率的だ。百害あって一利なしとも言われるこれをいったいどこのもの好きが削り出し、あまつさえ妖の核としたのだろうか。気になることは、まだまだあった。

              • _

              「殺生石、と言ったね」

              「ああ。一言でいうと大変な石だな」

               天月千春を近くの病院に預け、そしてひと眠りすれば否応なく朝はやってくる。どこまでも透き通るような朝だった。昨夜の殺生石は薙の獅子斬によって破壊されたが、同様のものがまだどこかに存在すると考えてよいだろう。情報デバイスを開いて報告書をしたためようとする薙に、谷崎は待ったをかける。監視の目を潜り抜けて殺生石を拾ってくることができるとは考えにくい。ならばどこかに、何者かに通じている者がいると考えるのが自然だ。それは財団の内部にいるのかもしれないし、連合かもしれない。とにかく、信頼できる人間にのみ情報を開示するのだ。ジョシュア・アイランズ、そして黒陶由倉。応神薙は頭を悩ませながらも簡潔に情報を伝えた。

               かあ、と烏が窓を突き抜けて二人の住処に入る。思わず警戒してしまう谷崎を、応神薙は手で制止する。応神風路からの伝令の烏だ。折り紙ではなく、式神本体を遣わせることになんらかの圧を感じた。再び烏はかあ、と鳴き、来た時と同じように窓ガラスを突き抜けて西の空に飛び立った。丁重に巻物を開けると、そこには簡潔な二文字が書かれていた。「来い」と。

              「親父め。ご丁寧に花押まで添えてやがる。こりゃあ本気ってやつだな。行けばきっと怒られるだろうが、行かねばもっと怒られる」

              「ふうん、そりゃあ楽しみだね。キミは最近R34が納車されたんだっけ?どこに敵がいるのかわからない以上、相乗りするのはよくない。この時期の高速はガラガラだろうね。ぜひともぼくのロードスターとちょっとした勝負でもしゃれ込もうじゃないか」

              「ちょうどいい。日用品の類は向こうにあるだろうから要らん。服を数枚おれのRのトランクにでも詰め込んどこう」

               瞬く間に服の選定を終わらせた二人。流れるようにエレベーターを下り、服の詰まったボストンバッグを二つ、駐車場から出したRのトランクに詰め込み、そして二人は手の中で鍵を回しながら各々の車に乗り込む。エンジン音のハーモニーが前奏曲として奏でられる。比較的低い建物にマンションが混じる下町と、遠く新宿の大都会。東京の二つの町並みを、諷経はよく目に焼き付けた。二人は、西へ。太陽が沈む方へ。

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