救急車のサイレンの音が耳に入り込む。
交差点の真ん中で一台のトラックが停車していた。トラックのフロントガラスは破砕しており、バンパーはその形状を歪ませている。地面に残された曲線状のタイヤ痕が、この場で何かが起きたことを示していた。
トラックの先を見ると、そこには倒れている人がいた。右脚は断裂してしまっているようだ。折れた骨が皮膚を突き破り体外へと露出している。地面に強く打ち付けてしまったのだろうか、後頭部からは血が滲んでいた。額を伝う赤黒い線が、彼はもう助からないことを語っている。
「かわいそ……」
俺は見て見ぬフリをしてその場を立ち去った。死体に対してできることなど一つもない。長居しても意味がないと考えて、この出来事を忘れるように努めた。
◇ ◇ ◇
『この交通事故について、監視カメラの映像からトラック運転手の不注意であるとされ──』
テレビを消した。ニュースなんてつまらない。起きた出来事について淡々と語るだけの番組に価値を見出すなんて馬鹿げていると思った。俺はそもそもテレビというものが嫌いなのだが、ニュースはその中でも群を抜いて嫌いだ。情報を知るなら新聞でいい。フィクションは書籍で十分に楽しめる。映像の出る幕などない。
昔、一人暮らしをする際に買ったものだが、そろそろ売り払ってもいいかもしれない。俺みたいなテレビアンチの手元にあるより、一般的な子持ち家庭に渡った方が俺もテレビも幸せだろう。
「さて、と」
リビングのソファから立ち上がり、二階へと向かう。二階には書斎がある。そこには俺がこれまでに集めた様々な本が並べられている。ただし、本棚には収納しない。狭苦しい容器の中に閉じ込めておくのは本にとって可哀想だからだ。それよりなら、自由に解き放っておく方が本も喜ぶだろうと考えている。
木製の床が軋む。体重移動の度にギィと鳴る。
本はいい。読書を通じて自分とフィクションだけの世界に没入することができる。時には世界を救うヒーロー、時には世を席巻する大悪党。本の中でなら自分は何者にだってなれる。気がつけば一日中通しで読書をすることもあるくらいに本が好きだ。
書斎の扉を開け、電気をつける。山積みになった本が俺を迎え入れた。今日はどれを読もうか。そういえば、この前入手した古書があったはず──
プルルルル……
着信音。スマートフォンが振動している。ポケットからそれを取り出して、通話に出た。
「はい、ヤマトモです」
◇ ◇ ◇
神音町。近畿に存在する小さな街で、人口は約四万人。特にトラブルや異常な出来事が起きるわけでもない普通の土地だ。呪いやオカルトの類いとの関係もないし、奇特な出来事が起きることもない。人々は平穏に暮らし、時間は緩やかに進んでいく。
神音町の外れには骨董品店がある。そこの店主とは高校時代からの付き合いで、よく飲みに行っている。いわゆる友人というやつだ。
「よお、ヤマトモ」
「待たせてすまない。それで話って?」
「お前、珍しいもの好きだったよな」
確かに、俺は珍しいものが好きだ。一度興味が湧けば、どんな手を使ってでも手に入れようとする。とはいえ、流石に犯罪に手を出すわけではない。合法的な手段の中でアレコレして目当ての物を追いかけていくわけだ。
店主はそのことを知っている。だからこうして、時折連絡をくれるのだ。珍しいものがある、お前の好きそうなものが入荷した。そんなことを言い、俺に品を売りつけている。そして俺も俺で、特に疑いもせずにそれを買っている。ウィン・ウィンの関係と言えば聞こえはいいが、実際にやってることは宗教の勧誘で高い壺を売りつけられ、買わされるのと同じようなことだ。
「それで、何が入荷した?」
「呪いのコーヒーカップだ」
「……は?」
呪いのコーヒーカップ。字面だけ見れば下手なフィクションに登場するアイテムみたいだ。「そんなものあるわけないだろ」と思いつつも、心のどこかではその実在を求めている自分がいた。
それにしても呪いか。呪いにも様々な種類がある。形代を用意して呪詛をかけるものであったり、条件付けで相手を呪殺するものだったり。無論、こういった呪いが実際にあるわけではない。あくまでもフィクションをもとに考えられた呪いのヴィジョンがそうであるというだけだ。
「なんで呪われてるって分かるんだよ」
「いや俺も信じてるわけじゃないんだけどさ、売りに来たやつが言ってたんだよ。直接触れたら呪われる、って」
「だから『呪い』のコーヒーカップ? 馬鹿馬鹿しい」
店主は「そうだよなぁ」と言いながら俯いた。俺はフィクションは好きだ。でもそれがさも現実にあるかのような振る舞いは好きではない。フィクションは非現実だからいいのであって、それが現実にあると良さなんて何も無くなってしまう。
「これがそのコーヒーカップなんだけどさ。ヤマトモ、お前はどう思う?」
店主が店の奥から透明なプラスチックケースを持ってきた。中身が透けて見える。そこにあるのは縞模様かつ陶器製のコーヒーカップだった。これが例の代物なのか、思ったより普通だな。
「呪いって割には普通じゃないスか? もっとおどろおどろしいものを想像してたんだけれども」
「そうなんだよ、パッと見だと普通のコーヒーカップにしか見えない。でも確かにあいつは『呪われてる』って言ったんだ」
「悪趣味な冗談か何かだろ。信じるだけ無駄だ」
でも、置物として見ると悪くないかもしれない。アンティーク調な見た目は俺の好むところでもある。これが誰かの手に渡るのも癪だ。
「買うよ。何円だ」
「いいのか? マジで呪われちまうかもしれないのに」
「呪いなんてあるわけないだろ。で、何円払えばいい」
「友人価格で7500円だ」
財布から一万円札を取り出し、店主に渡す。
「釣りはいい。変わりに今度なんか奢ってくれ」
「わかってるよ。駅前の飯屋でいいな?」
軽く駄弁って、店を後にする。手元には呪物の入ったプラスチックケース。帰ったら早速開けてみるとしよう。
◇ ◇ ◇
家に着く頃には既に日は沈んでいた。真っ暗な家の中に明かりをともす。そのままの足でリビングに向かい、プラスチックケースをテーブルの上に置いた。気持ちが高まっている。緊張とも高揚ともつかない不思議な感覚だった。
「それじゃ、小手調べといこうか」
ケースを開け、素手でコーヒーカップを掴む。取っ手に指を入れて持ち上げる。重さや見た目におかしなところはないようだ。やっぱり呪いなんて嘘じゃないか。そう思ってコーヒーカップから手を離そうとした時。
「いたっ……」
手のひらに焼け付くような痛みが走った。そして異変に気付く。コーヒーカップが手から離れないのだ。ぶんぶんと振り回しても手にくっついたまま。壊そうとしてテーブルに叩きつけたが、傷一つつかなかった。どうなっていやがる。これが「呪い」なのか? 店主の話は本当だったのか? こんなことが現実にあっていいのか?
コーヒーカップを離そうとしてその場で暴れ回った。壁に手を叩きつけたり、ハサミを使って無理やり引き剥がそうとしたり。接着剤を分離させる時のように、手を熱湯に浸したりした。とにかく手のひらとコーヒーカップを分離させることだけを考える。どうすれば「呪い」は解ける? まさか一生このままなのか? こうなるなら彼の話を真剣に聞いておくべきだった。だが、後悔先に立たず。呪われてしまった以上、どうにかして解呪するしかない。
解呪の方法を模索した。思いついた行動は全てやった。それでも手のひらからコーヒーカップが取れることはなかった。どうしようもなく、現実を受け入れるしかない。それが結論だった。その場に座り込み、呆然とする。あの時、トングを使って取っていれば。そもそも、このコーヒーカップを買わなければ。「れば」の思考が脳を埋め尽くす。
──そういえば、喉が渇いたな。
ふと、手元のカップを見る。その中は、赤黒く濁った液体で満たされていた。液体は異臭を放っている。生臭く、刺激的な匂いだ。思わず反対の手で鼻をつまむ。なんだこれは。まさか、まさかだとは思うが──
「……血?」
その液体が飲めるものではないことは自明だった。カップの内容物をゴミ箱に捨てる。がしかし、カップの中は再び赤黒く濁った液体で満たされた。どうやら処理することはできないらしい。
気分が悪い。頭がぼうっとして意識が定まらない。尋常じゃない量の発汗が起きている。まるで、全身の水分を絞りだすかのように。
水。水が必要だ。急いでキッチンに向かい、蛇口に口をつけて水を飲む。それでも喉の渇きは治らなかった。なんで、どうして。俺は確かに水分を取ったはずだ。脱水なんて起こらないはず。そう考えた刹那、腹の底から何かが込み上げてくる感覚を覚える。吐き気に似た、気持ち悪い感覚。
「ゔっ」
思わず吐いてしまった。汚い水音がキッチンに反響している。それでも吐き気は止まらない。吐瀉物が喉を通る感触が更に気分を悪くさせる。俺は再び吐いた。出てきたのは胃液と唾液だけだった。折角水分を取ったのに、これだとまた脱水になってしまう。俺を干からびさせようとしているのか。
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